皆様からのメッセージコーナー・2 ● メッセージ記入
私は、学校の歴史の授業で「戦争」について勉強しました。そのことをまとめるための新聞を作るのに資料集めをしていてこのホームページを知りました。私は、戦争を経験したことがないからわからないけど、でも、絶対にもうくりかえしてはいけないことだと思いました。戦死した人の死を無駄にしてはいけないと思いました。これからもがんばってください。
(小学6年生 2000年12月19日)
戦争の犠牲で得た平和を無駄にしない事、それが戦死した私の友だちへの何よりの供養になります。明るく元気に世界中の少年少女たちと仲良くして下さい。
(信夫)
初めまして、こちらのページにはYahooのほうから、お邪魔させていただきました。実は私の父は、もう10年前に他界しているのですが、大正10年、赤坂の生まれだったそうです。生前、父に子供の頃の話を聞かされていたのですが、私の年代では想像するすべもなく、そんなことが、あったんだぁ・・・位にしか思っていませんでした。ところが、こちらのページを拝見させていただき、何か、自分がその時代にいたような気持ちにさせていただきました。父は、軍隊も同じように満州に行っており、(ただ、一年ほどで病気のために、本土に帰ってきたそうですが)なんとなく、その当時を想像することができました。これからも、暖かい作品をお描き下さい。それでは
(八木原 雅 http://www.geocites.co.jp/HeartLand-Oak/9018 2000年11月10日)
今思うと赤坂はとても環境が良くて、当時の子供達には天国の様な所でした。雅さんのお父さんもきっとのびのびと育った方と思います。今でも思い出して描いています。
(信夫)
いろんなえがありとてもまんぞくしました
(たかぴい 2000年11月10日)
大正うまれのわたしと、平成の子供とはあそびもかんがええかたもちがうから、とてもさんこうになるとおもいます。でも、もっとおもしろいあそびが、たくさんありましたよ。
(信夫)
はじめてメールいたします。私は静岡県の松浦と申します。私は現在、インターネットのホームページを開設しております。「私設文庫館 太平洋戦争編」というタイトルで、太平洋戦争関係の個人の戦争体験記や公共団体が発行しています各市町村民の戦争体験記集の紹介をしております。「遥かなるパガン島」のリンクより貴方のホームページを知りました。お父上の戦争体験記を読ませていただきました。貴重な体験記だと思います。そして絵がとても印象的でした。私からのお願いですが、私のホームページに貴方のホームページをリンクさせていただきます。戦争体験記の紹介をしております私の趣旨にぴったりですので、ぜひお願いいたします。
(松浦 http://www4.freeweb.ne.jp/novel/m-take/ 2000年11月8日)
戦争体験をネットで後世に残すことこそ我々の世代のつとめだと思います。松浦さんのHPの運営、頑張って下さい。リンクは大歓迎です。よろしかったらぜひ、当HPのリンクページに松浦さんのHPを登録して下さい。自動登録式なので、松浦さんのお好きなコメントでリンク登録できますよ。
(「わんぱく物語」HP管理者 木内正人)
母が最近、87歳でなくなりました。私が3歳のときに子供4人をつれて、命からがら満州から引き上げてきました。父は満鉄病院の医師でしたがシベリアに抑留されました。同じ境遇の人に共感を覚えます。母が亡くなってから、博多に入港したときの公文書や終戦直後の配給された物品や値段を書いた古文書のようなものが出てきました。宝の持ち腐れなるのでどこへ寄贈すべきか迷っているところです。このようなものを生かせる場をご存じの方があればお教え願います。
(浮舟宣武 DZB11553@nifty.ne.jp 2000年11月5日)
浮舟様のお母様やご家族もご苦労されたことと思います。さて、古文書の件ですが、おそらくどこへ寄贈しても倉庫の奥にしまわれ、結局は宝の持ち腐れになるだろうと思います。最も良い方法は、浮舟様ご自身の手によりホームページを開設し、その古文書をインターネットで公開してはいかがでしょうか。そうした一人一人の貴重な記録を、誰でも自由にネットで閲覧できるようにすることこそ、亡くなられたお母様への一つのご恩返しになると思います。
(「わんぱく物語」HP管理者 木内正人)
とてもとてもなつかしい、すばらしいHPです。赤坂編の絵が何ともいえずに懐かしく、胸にせまります。私も明治大正昭和初期という両親の生きた時代をとても興味深く思っており、それを着物を通して見てみました。お暇な時にお寄り下さい。尚、リンクさせていただきました。もし、不都合であればご一報下さい。
(あつこ矢絣 http://www.furukawa-s.com 2000年10月10日)
矢絣さんのHP拝見致しました。私の母も明治生まれなので亡くなるまで洋服は着ませんでした。夏は袖から入る風で涼しいと申していました。明石とか呂の羽織などなど、明治大正の人は男女共々着物の裏地まで贅を凝らしていたようです。特に私には大正時代の縦縞が懐かしいです。
(信夫)
私は中国人の武ですが。遼寧省錦州の出身です。(旧満州の錦県) 母のために、旧満州の海拉爾日本小学校の春日泰さん、小山泰さんを探しています。私が二年ほどなかなか見つからなかったので、もしこの情報があれば、教えていただけませんか。急に申し訳ございませんが、是非お願いいたします。
(武 建屏 wjp@yahoo.co.jp 2000年9月13日)
軍人の場合ほとんど一般の方との接触がありません。現地の人達やその地方の産物も名所も知らず只々軍務に服して居りましたので、武さんのお力になれず残念です。このような情報は元軍人以外の引揚者からお聞きするほうが良いと思います。どうかあきらめずに頑張って下さい。
(信夫)
趣味で詩を書いている父が満州の詩を書くということで、その手伝いで色々ネットを徘徊しています。僕自身も満州は木山捷平の小説などで興味を持っており、お邪魔しました。やさしいタッチの絵は、静かに、そして深く心に響くようでした。戦時中の生活というのは、なかなか聞くことや見ることが出来ないので貴重でした。またお邪魔します。
(どですかでん http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Ayame/8536/ 2000年7月15日)
親孝行でちょっといたずらっぽい君の姿が見えるような気がする。でも小生と違うところは頭が良さそうだ。当たらずとも遠からずかナ。いろいろ覚えて教養の糧にして下さい。
(信夫)
何時読んでも戦時中にタイムスリップします。このHPはたくさんの方に紹介しました。戦争体験をした者もそうでない人も、必ず現在と照らし合わせて、心を引き締めることでしょう。
(暁 太郎 http://www.kings-net.ne.jp/fuzi1/ 2000年7月6日)
小生の満州軍隊当時の思い出は、広い広い草原と赤い夕陽と飛行機だけです。外出しても、その当時「満人部落」と呼ばれていた城内に入る事は許されていませんでした。我々学生気分の抜けない兵達は特に守らされ、満州人と話す機会がありませんでした。貴方のHPの写真を見ても、夕陽の向こうに格納庫が瞼の裏に見えてきます。戦友達の顔が次々に浮かんでくるのみです。
(信夫)