皆様からのメッセージコーナー・1 ● メッセージ記入
涙が出てきました。戦争を題材にしながら、これほどあたたかくやさしい気持ちが伝わってくるページは、見たことがありません。ほんとうに感動しました。私の義母は、サイパンの近くのパガン島という島で戦争を体験しました。先日、パガン島についてのホームページを立ち上げたばかりなのですが、情報を集めていくうちに戦友会の方、引揚者の方がたが大変熱心に協力して下さり、人のつながりや、歴史を伝えていくことの大切さを実感しました。これからも上の世代の方々のお話を集めて、ホームページを発展させていきたいと思っています。制作中から、ずっと、わんぱく物語をぜひリンクさせていただこうと思っていました。私の力では表現しきれないことを、このページが語っているからです。事後承諾になってしまいましたが、どうかご了承下さい。木内さん、今後ともくれぐれもお元気で、ご活躍下さい。
(OK http://www.dd.iij4u.or.jp/~pagan/ 2000年4月18日)
小生は今でも思います。共に国のために戦争に行ったが、不幸にして還れなかった旧友、戦友が、もし全員無事に帰還していたらと、最近とみに考えます。「おまえも77歳だ、よかったなあ」と云い合って、孫や子の自慢話で更けるであろうと・・
(信夫)
すばらしいホームページです。ほぼ同年代の私は懐かしさのあまり、涙が出たほどです。写真よりも感動的です。つきましては私のホームページにリンクを張らせて頂きたいのですが、いかがでしょうか?ご返事をお待ちしています。
(岩村 成昭 http://www2s.biglobe.ne.jp/~shigeaki/ 2000年2月2日)
昨年から今年にかけて戦友が激減しました。元兵隊さんも歳には勝てず、足腰の弱くなった人も多くなり、淋しい思いをしています。戦前の少年時代もそれなりに楽しかったと思って居ります。もっとも人それぞれの環境もあって一概には云えません。お互いに身を大切に元気で公正に云い伝えましょう。
(信夫)
私の祖父が一人は満鉄で働き、もう一人は兵隊として満州事変にも参加し、わんぱく物語と同じように、シベリアに抑留されました。しかし、私自身、満州に対するイメージは漠然としていて、明確ではありません。私だけでなく、多くの戦後世代がそうだと思います。そんなことから、大学のレポートで過去から現在に至る満州へのイメージの変遷について調べようと思い、事後承諾に近い形で申し訳ありませんが、このHPも参考にさせて頂きました。とりあえず、お礼を申し上げます。ありがとうございました。また、こうした形で当時の記録が残されるのは、とても良いことだと思います。歴史の本から学ぶのは知識であり、こうした生きた記録から学べるのは、その当時の歴史の一端であり、人の想いそのものでしょう。そして、誰かの目を通して歴史を覗いて、はじめて私達は過去を自分のものとしてイメージできるようになるのだと思います。長くなりましたが、最後に、これからもこのHPを続けて下さい。
(小嶋 智美 1999年8月22日)
小さな一人一人の兵の歴史は大きな国の歴史と異なる尊いものが有ると信じています。愛国精神だけで戦った還らぬ戦友の為に私はこの事実を後生に伝えたいと思っております。バカみたいと思うでしょうが、どうぞよく働きよく戦った兵の純粋な気持ちを汲んであげて下さい。
(信夫)
興味深く拝見しました。私が満州に関心を持ったのは、祖父が満州からの引揚者であり、幼いころから満州での話しを聞いていたからです。祖父は、軍人としてではなく満州で一旗あげようとして渡満し、焼き物の商人をしていたそうです。夏休みに帰省して祖父にはゆっくり話を聞くつもりです。私は、現在大学4年生で今度卒業論文で満州を取り上げるの、関連情報・文献や体験談を集めています。その中で、満州からの引揚者だという方が案外多いのに驚きました。信夫さんにもお会いして話が出来れば良いのにと思っています。これからもお元気で。
(原 美都理 1999年7月30日)
戦争でなければあなたのお爺さんはきっと焼き物で中国との交流の良き掛け橋になっていたことでしょう。お隣の国と仲良くするつもりだったのに残念でしたね。
(信夫)
私は16年に新京にいました。中学1年生。19年には甲飛15期予科練、高知で終戦。友人は、戦後帰国で、貴兄と同様ご苦労があったようです。「わんぱく物語」を読ませてもらいました。感動巨編というべきでしょうか。昔を思い出します。HPに現長春の写真など掲げています。お暇な時どうぞ。9月に当時の小学校同窓会を神戸で開きます。物語を読ませてやるつもりです。また来ます。
(暁太郎 http://www.kings-net.ne.jp/fuzi1/ 1999年7月17日)
赤い夕日の満州は今でも瞼の裏にしっかりと焼きついています。旧関東軍司令本部も東京九段の旧軍人会館とそっくりですね。お互い無事で何よりでした。同窓会の皆さんと楽しく語り合ってください。
(信夫)
学校の課題のひとつで、満州のことを調べることになりアクセスしました。この時代の人は、本当にいろんな経験をしているのですね。課題の前に、実際に戦争を経験した人の話も聞きにいったのですが、勉強になります。明日は図書館に行って、もっと、深く調べる予定。実際に満州で過ごした経験談が聞けて良かったです。何か分からないことがあったら、おたずねしてもよろしいでしょうか。
(はる 1999年7月8日)
若いこれからの人達が戦争というバカな事をしない為にも役に立つなら、知っていることを教えます。しかし一つの物を見ても人それぞれ違うから、多くの人、多くの文献を調べて考えてみて下さい。
(信夫)
初めまして、こんにちは。ネットサーフィンをしていて偶然見つけました。私は戦争を知らない世代です。それでもべえごまの経験者です。凧もあげられるし、独楽も回せます。恐らく、このHPの作者さまや、私と同じようにHPを見ている方が経験した昔の遊びを、私は知っています。それは学童保育に入っていたためですが…。うまく言えませんが、こうして人の歴史を見ることが出来たり、そこに自分と共通の何かがあるというのは、なんだかとても嬉しいのです。戦争という重いテーマがありますが、それはそれで歴史ですから。今、私達の世代の視点から戦争や昔について見てみることが大切なのではないでしょうか。うまくまとめられませんでしたが、最後に、ここに来られて良かったと思います。
(カリノサチコ 1999年6月20日)
少年時代と云うか幼い頃はやっぱり皆同じ遊びをしたんだと思うと、何となく親しさを感じます。どこの国の子供や女性は戦争が嫌いです。ほんの一握りの高官達が起こす戦争で弱い人達が傷つきます。戦争に勝った国も負けた国も同じです。君たちの時代でこのような事のないように努力しましょう。 写真でしか知らない父方の祖父が、昔、旧満州で麻糸を使った製品(軍需産業に関するもの?)を作る仕事をしていたと聞き、そのころのことを知りたいと思ってインターネットで検索していたところ、このページに出逢いました。当時を知ることのできる貴重な資料として、じっくり拝見させていただきたいと存じます。ありがとうございました。
(信夫)
(ひろこ 1999年3月13日)
あなたのお爺様はとても御苦労なされた方と思います。小生は当時ただ戦争にいく事だけしか考えて居りませんでした。あの頃は東京も満州も気候はが違っていてもやっている事はそんなに違ってなかったと思います。少しでもお爺様が偲ばれてよかったですね。 母の産まれ育った満州に興味をもってアクセスしてみました。いろんな人の”満州体験”を知るのは興味深いです。母(故人)は終戦時はまだこどもで、祖父は警察官だったので軍人とはいろんな状況がちがっていたのでしょうね。これからも、私は私の母の満州を調べて行けたらいいなと思っています。
(信夫)
(竹中京子 1999年2月12日)
私は軍人だったし、幼い頃から厳しい訓練で鍛えられていたので、戦後もそれほど苦しいとは思わなかった。貴方のお母さんはや他の人達はとても御苦労なさったことでしょう。平和な現在を大切に生きることです。 紫幽さん、こんにちは。「TAMA'S SMALL GALLERY」のTAMAです。「わんぱく物語」楽しませていただきました。こどものころ、昭和の古き良き時代の思い出を、父からよく聞いていました。やんちゃ者の父は、昔話の中で、池で青大将に出くわしたり、えびがにを釣ったり、畑で肥溜めに落っこちたり、蛇をあぶって食べようとしたら、骨ばかりで食べるところがなかったりするんです。くすくす。何度聞いても楽しくって、よくおねだりしたものです。郷愁の感慨に耽る暇もなく、還暦を越えた現在も、元気に働いています。きのうも正月の予定を訊こうと電話を掛けたら、電話の主が娘とわかった途端に、「ただいま出かけております、ピ〜〜っ!」なんて、おちょけていました。いつまでも少年のままの父です。そう、きっと紫幽さんも、家族に愛されるパパでいらっしゃるのですね。「祝入学」となりの女の子の名札に「ツマ」と描かれていて、ほんわかしあわせをおすそわけしていただきました。はやく退院できるといいですね。わたしも待っています。
(信夫)
(TAMA 1998年12月26日)
ありがとう。TAMAさんが描かれた絵を息子に見せてもらいました。「この不景気をどうしよう・・」と瞑想にふけるボス猿(でしょうか?)がとても良く描かれている。薄汚れた毛並みに一抹の淋しさがあり、口のまわりのもやもやした毛もていねいに筆を入れている。背景も一色で殴り描きしてないので、とても自己流の私には描けない絵です。見ていて飽きません。楽しい絵を沢山描いてください。 先日、ご来訪いただいてからやがて1か月たちますね。ますます筆が冴えておられるご様子、ご活躍を祈ります。当方は年賀状で四苦八苦しています。あと僅かで年がかわりますが、来年は明るい景気のよい年にしてもらいたいものです。みなさまによろしく。
(紫幽こと信夫)
(船越源一 1998年11月30日)
月日の経つのは本当に早いですね。私も毎年年賀状で忙しい思いをしています。戦友に頼まれる分もありまして、5種類程作図します。数もなるべく減らしますが、殖えるのもあってぜんぜん変わりません。でも無事な知らせほど程嬉しいものはありません。丈夫なうちは頑張って描きます。船越さんも奥様もお元気で寒い冬を越してください。 3日程まえ、念願のノートパソコンを入手して目下、悪戦苦闘中です。これをこのあとどのように使うか思案中。これはまえのデスクトップで打っています。わんぱく物語をいれて戦友にみせたいと思いますが、自慢らしくてやめておきます。友達にはぜひ見てもらいたいものです。
(信夫)
(船越源一 1998年10月9日)
度々のお便りありがとうございます。父は現在も新作の絵を描いております。ノートパソコンを入手されたそうですが、父と同じ70代というお年で本当にご立派です。父に船越さんの爪のアカでも飲ませたいです。あまり夢中になり過ぎぬよう、お体にお気をつけください。 わんぱく時代からの昭和史みごとな出来栄えに感心しています。小生の小学生のころは同級生は着物スタイルで洟を袖でこするのでビカビカ光っていたものです。ますますの筆の冴えと、洒脱な画、楽しい中にもあの当時のことを思い出させていただきました。今後ますますのご活躍を祈ります。当方、平均年齢75才の戦友会に張り切って出席しています。ありがとうございました。
(「わんぱく物語」HP管理者 木内正人)
(船越源一 1998年10月8日)
早速見ていただきありがとうございます。私も今年が75才です。大正12年生まれの良かった事ばかりが思い出されます。関東大震災にも運よく助かった赤坂一ツ木から始まった私の一生をぼつぼつ描いております。どこまで遠くまで思い出せるかやって見ます。
(信夫)