皆様からのメッセージコーナー・4 ● メッセージ記入
貴サイトを大変興味深く拝見しております。一点だけ質問なのですが、昭和16年の年表に「1941/12/08イギリス、アメリカが日本に宣戦布告する。」とあるのですが、一般には日本の宣戦布告が真珠湾攻撃、あるいはマレー半島攻撃に遅れたために米国民の怒りを買ったと言われておりますが、この英米側からの宣戦布告というのは、何時どのような形でなされたものを指しておられるのでしょうか。
(山本準 https://jun-yamamoto.wixsite.com/jun-yamamoto 2018年11月19日)
ご連絡ありがとうございます。年表はホームページを開設した20年以上前に、父の作品の背景としてネットにころがっている情報を適当にコピー&ペーストしたものなので、もともとの出所も信憑性もよくわかりません。山本様のご質問に答えられなくて本当に申し訳ありません。
(「わんぱく物語」HP管理者 木内正人)
同窓会の記念誌を作るので、100年間の歴史を調べています。その中で、戦前、戦中の高等小学校のことが知りたくて探しているうちにこちらにお邪魔いたしました。大変な青年時代を過ごされたのに、戦争を知らない私たちにとても分かりやすく描写されたコメントつきの絵はとても感動を覚えます。多分描写された人物の顔が優しく描かれているからでしょうか。救いがあります。たくさんの子供たちに見てほしいものです。辛い経験をこのような形で発信してくださり有り難うございました。
(同窓会のスタッフ 2010年6月28日)
父のイラストがお役に立てて本当に嬉しい限りです。父の過ごした戦争の時代であれ、今のような平和の時代であれ、そこに暮らす人々はそれぞれに地域社会と関わりを持ちながら生きています。父は「過去の出来事から悲劇ばかりを強調してしまっては、それこそ正しい歴史認識ができない。」と常々申しております。ぜひとも、たくさんの子供たち見て頂きたいですね。
(「わんぱく物語」HP管理者 木内正人)
父の父、つまり父方の祖父はバリバリの右翼で、皮肉なことに、父は共産党の活動家になり、生涯、共産党系の労働組合の書記長として働きました。父は労働争議をしていたので、私たち親子は4人で4畳半の長屋住まい。生活保護を受けていたので、私と妹は幼稚園にも行けず、もちろん大学なんて夢のまた夢です。私は美術を専攻していたので、美大に行きたかったですが、妹と平等にしないとダメということで進学できませんでした。当の妹は高校中退して水商売に走り、覚せい剤中毒による薬物性精神病になり、暴力や事件を起こし、措置入院となり、退院後間もなく自殺しました。父は飲んだくれで脳卒中で意識不明のまま何年も生きたので、妹のいきさつなどは知りませんが、元々の原因は父の暴力です。母、子供、関係なく、飲んでなくても毎日暴力をふるい、なんども近所から警察を呼ばれました。私は結婚して旧姓じゃなくなったことに安堵を感じます。残るは母ですが、生理的には嫌いだけど、社会の基本となる家族のつきあいはキッチリしていくつもりです。ようするに、父は私たち家族にとっては元凶でした。その父が共産党の活動家になって、「平和、平和」をとなえていました。だから私は「平和」とは単なるお題目にすぎないと考えました。平和を連呼する人たちって、じゃあどうして根本になる戦争がなぜ起きるのか示してくれません。はー、すごい無駄な時間を生きてきた気がする。。。
(匿名 2008年9月29日)
メッセージありがとうございます。メッセージ文中から個人と地域を特定できる情報を削除させて頂いたことを何卒ご容赦下さい。平和とは容易に実現できるものではないようで、いまだに争いが絶えませんね。どのようにすべきかは誰にもわからないと思います。少なくとも今の子供たちの幸せを望むなら、自分の親の代(子供たちにとっては祖父の代)に何があったのかを知っていることが大切なのでしょう。“時間”とは前にしか進みません。それ故、今を生きる私たちの行いが次の世代である子供たちの未来に影響するのですから。
(「わんぱく物語」HP管理者 木内正人)
初めてお便りします。母親が生まれた昭和6年にどんな出来事があったのかと検索している時に偶然に辿り着きました。数年前に34年努めた自衛隊を退官して現在は都内の民間会社に勤めていますが絵が好きで時々描いています。味のある絵で感心しました。絵を見て感激し、作者のプロフィールに苦笑と感心し私が趣味でやっている三線をやられている事に共通点を感じました。また時々寄らせていただきます。
(少尉 2008年6月25日)
少尉さんはじめまして。お母様の生まれた年を知るお役になてたでしょうか。三線は母の趣味ですが、父と共に御朱印集めの旅によくでかけます。また絵を観に来て頂ければ幸いです。
(「わんぱく物語」HP管理者 木内正人)
「親子で訪ねる横浜空襲」を主宰しています西田と申します。かつて同名でホームページを運営していましたがサーバーが飛びデータが無くなってしまいました。このたび改めて作成いたしましたので是非ともリンクさせていただきたくよろしくお願い申し上げます。
(西田篤志 2008年5月16日)
西田さんはじめまして。相互リンク大歓迎です。こちらのホームページのリンクページは自動登録式なので、西田さんのお好きなコメントで登録できます。お待ちしております。
(「わんぱく物語」HP管理者 木内正人)
YAHOOきっずからこのホームページにたどりつきました。大変わかりやすく子供にも理解しやすいホームページだと思います。昔の日本をしるいい勉強になると思います。戦争中の生活をもっともっと知りたいです。
(匿名 2008年3月5日)
Yahoo!きっずからのご訪問ありがとうございます。子供が安心して観られるHPとして扱われていることを、HP管理者として大変嬉しく思います。私の父も戦争中の記憶を時々思い出しては絵に描いています。これからもよろしくお願いします。
(「わんぱく物語」HP管理者 木内正人)
私の小学校時代 戦争後半の当時から終戦後 初の衆院選挙まで「終戦前後2年間の新聞切り抜き帳」を作ってあります。どうぞご覧下さい。
(斉藤 彰 http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/ 2006年12月21日)
ご案内ありがとうございます。素晴らしい歴史資料ですね。戦中戦後に渡りご苦労されたことと思います。何卒ご自愛下さい。
(「わんぱく物語」HP管理者 木内正人)
はじめまして。東京で舞台(お芝居です)の勉強をしている者です。3月に一つのお芝居をやる予定なんです。それが、昭和7年から昭和20年までのお話のお芝居。・・・すごくすごく涙が出ました。私含め、今の若い人はこの時代を知らなさ過ぎる、そう思いました。分かることは出来ないし、全てを知ることは出来ない。でも、分かろうとする、知ろうとすることは出来るんだと思いました。
(NAN 2005年12月2日)
現代の日本は医術も優れている為か長寿な老人が多いです(医者知らずの小生は別として)。聞けば昔を話してくれる人が結構いる筈です。そう云うお人を見かけたら上手に話しかけてみて下さい。死後になりつつある良い言葉や名称が浮かびあがると思います。
(信夫)
27対空無線隊ですか。私の部隊は32対空無線隊でした。ミヤンマー(ビルマ)です。対空無線隊は昭和19年4月に新規に編成された部隊とききました。第1対空無線隊は東京の大本営だと聞きましたがわかりません。私がもし満州に行っていたらシベリヤに送られて恐らく凍死していたでしょう。南方だったから命永らえたんでしょう。実は少年兵で貴方より若いんです(昭和2年生まれ)。少年の頃東京・中野に住んでいたので貴方の書いた下町の絵とても懐かしいです(現在京都府)。これからもお元気でお過ごし下さい。
(川畑 武和 2005年1月31日)
同じ対空無線隊と聴いて懐かしいあの頃を思い出します。数字の速記、暗号の解読にあけくれた日々。何しろ速い戦闘機だけが交信相手だから、電話送信もとぎれとぎれ。苦労したもんでした。小生は寒さに耐えてきました。
(信夫)
始めまして。私の父は大正12年生まれで2002年に他界しました。父は陸軍で満州に行った事があり、私が子供の頃、「陸軍の乃木さんが合戦す・・・」と唄っていたのを思い出します。42年生まれの私も父の影響で軍歌ばかり覚えてしまいました(笑)。厳しい訓練や穴掘りの話も聞いた記憶があります。今になって父の戦争体験をもっと聞いておけばよかったと後悔しています。
(桑原 佐知子 2004年8月26日)
「陸軍の、乃木さんが、凱旋す、雀、目白、ロシア・・・」と続くしりとりです。大正12年生まれの子は、けん玉、竹馬、べえごま、めんこ、馬とび等、いろいろな遊びの名人達だったのです。また遊び道具もなんでも自分で作るのでお小遣いはナシでしたよ。
(信夫)
戦争を知らない団塊の世代です、父の叔父さんが富山の護国神社に連れて行ってくというので、車で一緒に行ったのですが、叔父さんは本殿には参拝せず、片隅にある満州からの引き上げの際亡くなった人たちの石碑に手を合わせて、帰ってきたことを思い出しました。叔父さんは満州の開拓団で妻子を残して軍に徴収され、敗戦時に 妻は帰国できたのですが、子供を亡くし 自分はシベリア抑留となり、ナホトカから帰国したことをはなしていました。その叔父さんも、父も亡くなって軍隊の話を聞くこともなくなったってしまいました。 この絵を見て 帰り船 の気持ちが伝わってきました。
(fujishu 2004年4月28日)
兵隊さんも引揚者もほとんどみんな80歳以上で、残り少なくなりました。昭和の暗い歴史もだんだん遠くなりますね。お父さんや叔父さんのお話を孫子に伝えてあげて下さい。
(信夫)
戦争は、もうに度と、このよのなかに、あらわれないで欲しい。っと思いました。戦争は、恐いなと、思いました。
(神馬梨奈 2004年2月22日)
戦争が止まないわけはいろいろありますが、人間でも動物でも欲のあるかぎりは続くのかも知れませんね。やさしい女性の智恵で戦争をなくしたいと思っています。
(信夫)
に会ったような気持になりました。残念ながら父は7年前癌で他界しましたが、戦争末期中国におり、なにやらの隊長をしていたそう、今小6の孫が小さいころ膝にのせ、「足を鍛えろ、いつでも逃げられるように、槍だの鉄砲だのはいい、足を鍛えろ。」と毎日行っていたあまり立派でなかったんだ〜おじいちゃんは、と話していた。こちらでは八月のお盆なので、そんな父の姿のビデオをこの数日見て、おじいちゃんが帰ってきた。と皆で夜をすごしました。そして、今このページを開いたら暖かい絵。その中にも多くを語っておられる。父に会ったような気持です。ありがとうございます。父は東京の大学時代に召集されたので、亡くなって時が経ついまでも、その隊の方が東京よりお便りを下さり、母の慰めになっております。戦争とは悲しいものですが、その中にもこんな人との繋がりを残したよいことが一つでもあったのだと、思うことにしております。しかし、どうか皆さんの心で戦争はどこの国でも、もう止めてください。
(若山陽子 2003年8月17日)
「足を鍛えろ」。お父さんの名言ですね。その昔、上杉謙信も同じ事を云ったと聞きます。小生も足が丈夫なので、今でもいろいろ用があって5キロ以内なら歩いて行きます。若い頃に鍛えておく事は良いと思います。
(信夫)
226事件なんて歴史の時間に習ったばっかり。経験者が生きてるなんてすごい!!。
(匿名 2003年7月5日)
226事件のあった年は、ベルリンオリンピックで前畑さんが水泳の世界記録を出しました。NHKでやっている「宮本武蔵」もこの年に出版されたんですよ。
(信夫)
最近不思議に感じたことです。母は女学校時代に終戦を迎えたひとです。彼女は「日本は負けて良かった」と言ってました。あの当時の日本が勝っていたら世界はどのようになっていたでしょう。反対に空襲で両親と弟を亡くした父はイラク戦争を支持していました。もう親兄弟の顔は覚えていない、施設から飛び出して悪いこともしてきたようです。正反対の両親ですがだからこそ戦争はするべきではないと思いました。それぞれに癒えることの無い傷があるのでしょう。母はそれでも田舎育ちなので戦後に始めて米軍を見たそうです。お腹が空いた思い出だけだそうです。玉音放送ではただ戦争が終わって良かったと思ったそうです。
「勉強したかった」と母はいってました。一生懸命学校に行かせようとした母の気持ちが今頃わかる気がします。
(まり 2003年5月22日)
あの時日本が勝っていたら、軍人を希望していた小生は中国に永住するはめになったと思います。戦争は敗けても勝っても不幸を生みます。弱い者や罪の無い人が大勢死にます。戦争は反対です。
(信夫)
製造業の会社でお客様向けリーフレットを作る仕事をしています。少し前、中国へ出張に行くことになり、旧満州の地からノモンハンへ行くことができました。昭和13年生まれの社長から、昭和55年生まれの私へのメッセージでもあったのかもしれません。ノモンハンの事件については、小説等で事前に知識があったものの、実際に現地に行き風土に触れると、また違うことに気づく事ができます。優秀ではなくても勉強が嫌いでなかった私は、学校では熱心に勉強しました…けれど、兵隊さん・現地の人・敵。事件の中にリアルな《人》が関わっていることを感じてこなかったのです。例えば1931年、満州事変・1932年満州国建国・1939年ノモンハン事件というように、私の理解は事実の羅列だけであったのです。これからお客様むけのリーフレットを作り、ノモンハンで感じたことをコラムにして掲載します。23歳戦前論(?)震えと奮えがいっぺんにきています。
(湯っこ 2003年5月2日)
感性豊かな若いときに感じた事は、後に大変参考になる筈です。今、湯っこさんの感じたことをしっかり記録しておくことです。コラム楽しみにしています。小生が健在のうちにね。
(信夫)
とてもしんどいしくるしいせいかつだなとおもった。食べ物もほとんど無いし、空気も悪いのでマスクもしていた様だ。その上、戦争もしていたので余計な苦労をしていた。本当に、戦争はしてはいけないな〜。
(ゆうみ 2003年2月4日)
ゆうみちゃんは、もしかして「わんぱく物語」とちがうホームページの感想とまちがえていませんか。「わんぱく物語」は昭和初期の東京赤坂なので、空気もそれほど悪くないし、そのころは食べ物もけっこうたくさんありました。また見にきてね。
(信夫)
スゴイせんそうは怖いこんな事をしてほしくない。本当に戦争は怖いです。
(八尾真美 2003年1月23日)
戦争は怖い。女の子だって男の子だって怖いはずです。でも戦争が好きな変な人たちがいる限り、終わることがないでしょう。人間の欲と同じかも知れません。
(信夫)
いろいろなえほんがでてきてみじかい文が少しずつのっていたのでおもしろかったですこれからもこうゆうページがあるとうれしいです。
(匿名 2002年11月26日)
70年近く離れていると、子供達の遊びも教育もすべてが違っているように思われます。少年少女からのメッセージを頂くと、そうだ!もっと描いてみよう、と老骨に鞭打って絵筆をとりたくなります。ありがとう、頑張ります。
(信夫)
昭和39年生まれ。現在、39歳になります。後世の人間があの戦争について語ることには限界があり、昭和8年生まれの父親と、多感な時期、この論争でよく衝突しました。そんな私にも、今、6歳と2歳になる男の子がおります。我が子にいかにして戦争という歴史を伝えていこうか?と、思い悩む昨今、お二人の共同作業であるこのHPを拝見し、大きなヒントを頂いたような気がします。こういう方法もあるんですね。
(政夫 2002年8月7日)
世代の違う者どうしが歴史観を語り合うのは最初から無理があります。少なくとも戦中戦後の価値観の差は歴然です。しかし、同じ人間である以上、必ず共通点が見つかるものです。遊び、友情、恋心、家族への思いやりなど。そうしたありふれた原点を尊く思ってさえいれば、世代を超えて伝えるべきものが見えてくる気がしませんか?。それは、親子の関係だけでなく、国や民族間でも同じかも知れませんね。
(「わんぱく物語」HP管理者 木内正人)
まるさんとこから飛んできました。まだまだ、ちらっと見たばかりです。でも、味のある、見ごたえのあるHPですね。またきて探検します。とりいそぎご挨拶、、、よろしく♪
(nadesiko http://www.shimabara.ne.jp/kobehi/ 2002年3月13日)
当HPはおかげさまで色々なところからリンクされているので、まるさんがどなたを指すのか判らず申し訳ありませんが、そうしたリンクを機会に見に来られる方がいることを嬉しく思います。今後とも宜しくお願いいたします。
(「わんぱく物語」HP管理者 木内正人)
私の父は昭和20年生まれの57歳。母は昭和22年生まれでの55歳。今年二十歳になる私と同級生の両親の年齢を比べると少し年配です。(私には8才上の兄がいます)最近は聞かなくなりましたが、父方の祖父が亡くなるまで時々でしたが戦後の貧しさを私に聞かせていました。父は戦後直後に生まれたので、食糧に対しての貧しさが一番つらかったようです。今では各家庭に普通に置いてある「砂糖」当時はめったに口にすることができず、パン屋(うるおぼえなのですが・・・)の前で
下ごしらえをしている姿をじっと見つめていたそうです。父方、母方の祖父は戦争に行きました。母方のほうは、第一次、第二次と両方行ったそうです。その祖父は私が4歳の時に亡くなりましたが、生前、よくうなされていたそうです。父方の祖父は、無事に帰ってくる際、上野駅でキュウイを土産に買ったそうです。しかし、珍しいものであり、高価なのものであったキュウイが食べるのがもったいなくて、腐らせてしまったそうです。そんな祖父も86年という生涯を去年閉じました。私は戦争と言うものはなぜ起きたのかを知りません。教科書で読んでいても、なぜ話し合いで解決できなかったのか?なぜ、殺し合いをしなければいけないのか?そればかり思います。話し合いで解決できなかったから戦争をした、武力で戦ったとも聞いたことがあります。「時代は繰り返される」という事をお耳に入れたことはあるでしょうか?以前、政治家が発言していました。良いことは繰り返されても、悪いことは二度と起きて欲しくないです。21世紀になり、核の威力は広島、長崎に落ちた原爆よりをはるかに超えています。これからはコンピューター一つで爆破できる世の中です。どんどん便利になっている日々ですが、それが凶器にも成り得ることを世間がこれからの子供たちにも伝わればと思います。長くなってすみません。この感じたことを伝えたくて書きました。
(ゆうこ 2002年2月13日)
戦争を知らないお父さんとお母さんに、戦争が遠い歴史になった現代っ子のゆうこさんの云う通り、流行と戦争は忘れた頃にまたやって来ます。人間に欲が有るうちは何回でも繰り返すことでしょう。平和とは戦争の中休みと思っても過言ではありませんが、そうならないように努力することが大切です。
(信夫)
小倉寛太郎(おぐらひろたろう→元日航労組委員長、東アフリカ研究家、自然写真家、1930生、「沈まぬ太陽」山崎豊子作150万部のベストセラーの主人公の原型)さんの「自然に生きて」を読み終わってから、このHPを拝見いたしました。私は1938年生まれで、名前は大戦勃発前の外務大臣・松岡洋右のような立派な人間になるようにと名付けられました。現在70歳以上になられる小倉さんの人生と、このHPが重なり合って、感銘いたしました。あの悲惨な大戦にいのちをかけて反対したのは、ほんの僅かな方々だけでした。今後ともご健闘を祈念いたします。
(知久洋右(ちくようすけ) 2002年2月2日)
私より10歳下の友達にやはり「洋右」と云う人がいて、彼のお父さんが子供達につけた名は全部政治家の名前でした。明治生まれの親は子にこの様な名前をつけたのですね。私は信で、兄は重、これは大隈重信からと云われました。
(信夫)
『戦争とは何か?』その事が知りたくてここにきました。木内さんの絵はなんだか温かみがあっていい絵だなあと思いました。
(匿名 2002年1月25日)
いい絵だなあと思って見ている人は、きっと同じ様な絵が描ける人になります。私もあなたの年頃から先輩の絵を見て書き始めました。習ってはいません。1日1枚絵日記を描いて下さい。
(信夫)
くそですね・・・・・・・・・いやほんと・・・・・・・直したほうがいいですよ・・・Q(ピロイさま) イガグリベね・・・・メールマッチ亡ケZ(ん車らこ) いい勉強になりました。これからもよろしく,お願いします。(里)
(2002年1月16日)
同じIPアドレスでのご投稿だったので、3つご一緒に掲載させて頂きました。老齢の父信夫も、投稿されたメッセージには真剣に返事を書いております。なるべくなら、父が気持ち良くご返事できる投稿をお待ちしています。
(「わんぱく物語」HP管理者 木内正人)