皆様からのメッセージ・21
現在、僕はロシア人女性と交際しており、そんな経緯もあって最近、ロシア関連の事柄に大変な関心を持ちネット検索の日々を送る者です。シベリア抑留という言葉については僕も学生時代に人並みに学び、歴史上そんなことがあったのか程度しか覚えていませんが当ページを閲覧し現実にこんな想像を絶する悲劇があったのだということを再認識させられました。実際に抑留経験をされた方々の苦痛や悲劇を僕のような平和な時代に生まれた者に理解できるはずはありません。しかしそれを理解しようという努力だけは必要だということは分かります。とはいえ当時のロシアの人々に対する非難や日本の権力者たちに対する疑問怒りの念は沸きませんが、現実に起きた悲劇を更に多くの人々が知るべきだということは強く思います。それによって日本とロシアが互いに犯した罪やそれによって引き起こされた悲劇を分かり合うことができれば本当に国境を越えて互いを認め合い、真の友人になることができると思います。抑留によって犠牲となった無数の方々のご冥福を心からお祈りいたします。そして無事に帰ってこられた方々、本当にご苦労様でした。
(匿名 2006年4月3日)
戦争がなぜ勃発したのか。その為、国々はどうなったか。世界はどう変ったか。若い人は過去の歴史を知って勉強してくれる事が、戦死した戦友達の供養になります。ありがとう。
(信夫)
今日は、私もT12年生まれで、旧満州からS20年9月3日にはシベリヤに連れて行かれ、S23年6月末復員するまで抑留生活しました、本日初めてこの画集を拝見し当時を思い出し感無量でした、有難うございました。現況は風化してしまっている様に思えてなりません。3年前からボケ防止にPCをいじっており、誰に見せるでもなく、当時を思い出しながら添削を繰り返し記述いております。益々のご自愛の程お祈り申しあげます。
(匿名 2006年2月26日)
同じ大正12年は戦争で多く亡くなり、今は高齢で亡くなり数少なくなりました。いつまでもお元気でいて下さい。
(信夫)
戦争で負けたあとのすさまじい事態が、画集をみてよくわかります。本で読んだ事が、よりいっそう現実の事として知ることができました。宝のような貴重な画集。すばらしいです。
(匿名 2006年2月21日)
大正生まれの我々の青春は軍事教練でした。国の為に戦うことは男の生きる道、と思いひたすらそれに邁進して何の悔いもありませんでした。そう云う時代だったんです。
(信夫)
今度開かれる「異国の丘」京都公演に行ってみたいと思います。このサイトは前から知っていて、すべてのイラストと内容を見たのですが、実際のイラストを見ていなかったので、本当に楽しみです。
(G−子 2006年2月7日)
ありがとうございます。作者の父も喜んでおります。イラスト展示といっても残念ながら原画ではなく、また一部抜粋であることをご容赦下さい。ただし、原画はA5サイズの小さな絵ですが、京都劇場で展示される絵は高解像な大きな複写なので原画よりも見映えが良いと思います。京都劇場では父のイラストのほか、シベリア抑留に関する他の資料の併せて展示されると劇団四季側から聞いております。戦争の事実をより理解できるような内容になっていると思いますので、ぜひ観劇の折に見学なさって下さい。
(旧ソ連抑留画集HP管理者 木内正人)
もっと戦争について教えてくれますか?お願いします。返事まってま〜す。
(匿名 2005年12月20日)
ご質問がかなりな広範囲故にご返事が難しく、「わんぱく物語」などを併せて参照されて再度メッセージを頂ければ幸いです。
(旧ソ連抑留画集HP管理者 木内正人)
日本語勉強している中国人です。ご大作から大きなショックが感じられます。日本人も戦争被害者、すべては人類の幸福をたいしたことにしない野心家どものせいです。平和最高!!軍国主義倒せ!!
(唐剣明 2005年11月20日)
日本語を学ばれているそうですが本当にご立派な志しですね。外国語のお勉強は大変なことだと思います。ぜひとも、中国と日本の架け橋になってご活躍されることをご期待しています。
(信夫)
先ずは、こんな立派な感動的なサイトを父子でお作りになられたこと、それに出会えたことに嬉しく、有難く思います。私は植民地朝鮮の平壌府近郊で特定郵便局をしていた両親の下に昭和5年生まれ、昭和22年、元山港から佐世保に引揚げてきたものです。父も旧ソ連兵に連行されましたが、運よく釈放され(民間人であると判断したためなのか?)一緒に親子6人(母は昭和19年病死)引揚げてきました。 このような体験からでしょうか、このホームページに書かれていることに痛いほどの共感と、熱い平和への想いが伝わってきます。このホームページがより多くの世界の人々に読まれること、益々のご発展を祈ります。
(松村 和郎 2005年8月23日)
現在では昨日の事を忘れてしまうのに、60年前の事が昨日の様に思い出されます。自己流の絵筆をとって見たまま自分史のつもりで残したかったのです。息子がHPで載せたため各国から反応がありびっくりしています。
(信夫)
明治45年生まれの祖父がシベリアに抑留されていました。母から最後の引き上げ船で舞鶴に戻ってきた事などを聞いていましたが、本人の口からはあまりシベリアでの事が語られることはありません。ですから何処に何年居たのかという事などは全く知りません。祖父からシベリアでのつらかった経験などは一度も聞いた事がなく、捕虜の人達が順番にコルホーズの作業に派遣されて、そこのロシア人が以前自分も捕虜だったので、空腹を気の毒に思ってくれ、食べ物を分けてくれたことや、手先の器用な人がロシア語を覚えてロシア兵の時計を上手く直して食べ物をもらっていた事、ロシア人の不器用さと言うか大雑把さを面白可笑しく話してくれたりはしまた。祖父ももう95になり、あとどれ位元気でいられるかと考え、彼の人生を考える時、戦争時の祖父を思います。戦場では祖父も人を殺した経験があるのかもしれない、自分も死ぬ思いをしたかもしれない、シベリアではすごく辛い思いをしたのかもしれないと。でも、シベリアでの事は先程書いたように、良くしてもらった事や面白かった事しか語りません。祖父は孫たちに自分の辛かった経験などを聞かせたくはないのではないかと思っています。それは単に私の思い込みかもしれないし、質問をすれば答えてくれるのかもしれません。しかし、90を過ぎた祖父にその過去を思い出させるというのは、孫としては出来ません。この先も祖父が語る以外の事を聞く事はないと思っています。今回木内さんのホームページはそんな事を思ってシベリア抑留の事を調べている時に見つけました。恐らくその時代には大変辛い事があったでしょうが、絵は悲壮感が漂うというものでなく、少しほっとしたような気がします。祖父から聞いていた話がそのまま描いてあるような気がしました。つらい仕事もこのように描ける木内さんは優しい方だと思います。戦争の事は語り告がれなければいけない事でしょうが、辛かった事や残酷な事ばかりが語りつがれるだけでなく、木内さんの絵の中にあり、また祖父が聞かせてくれたような普通の人達の普通の良心や優しさなども、とっと語り続けてもらいたいと思います。これからも描きつづけてください。
(匿名 2005年8月18日)
あなたのお爺さんは、きっと心の大きい人で小生よりも13才も年上で、戦争の何であるかも知った思慮深いお方と思います。我々無知な現役兵と違う召集兵は、ほとんど我慢強くよく年下の兵隊の心の支えになりました。しかし体力の差もあり、寒さに耐えられず生還出来なかった戦友たちでした。お爺さんにもっともっとお話を聞いてあげて下さい。
(信夫)
こんにちは。終戦後60年ということもあり、シベリア抑留の体験がある知人(大谷嘉男さん)のホームページのリンク経由で、こちらにたどり着きました。「戦争をしてはならない」を表現するのによく用いられる「悲惨さ」「残酷さ」は、戦争について眼をそむきたくなることがあります。また、自分側(もしくは自国)の立場からだけの描き方が多く、本当の意味での「戦争とは」という部分が見えなくなりがちです。しかし、こちらのホームページでは、自国と敵国を分けず「誰もが心ある一人の人間」という形で戦争体験を描かれていることが、とても心に響きました。体験を描いた貴重な絵の数々を紹介してくださり、ありがとうございました。今後の発展を、心よりお祈り申し上げます。
(匿名 2005年8月16日)
戦争に参加してその残酷さ、家族が戦死してその悲しさがわかる。名瀬その前にわかってもらえぬのか、この様な愚かさは不変なのか、知っているのにやるのか・・考えさせられますね。
(信夫)
ウクライナで亡くなられた方のご遺族と現地に巡拝に行くことになり、ウクライナ関係の情報を検索していたところ、このHPにたどり着きました。画集のことで教えていただきたいのですが、画集は市販されていますか。その場合、どこで入手できますでしょうか。
(匿名 2005年8月11日)
「舞鶴引揚記念館」で、「きらめく北斗星の下に」という画集に他の画家たちの膨大な作品の中の一部に、父のイラスト数点が小さく紹介されています。その本は以前そこで販売されたこともあるそうです。残念ながら詳細は不明なので「舞鶴引揚記念館」に直接お問い合わせ下さい。
(旧ソ連抑留画集HP管理者 木内正人)
和歌山で生まれた祖父が満州に行き、戦後捕虜となりハバロフスクからシベリアへ送られ疲労、寒さ、飢餓の中で生きてきたことを母から聞いたことがありました。当時の様子は私も祖父から直接聞いたことが無く、今では亡くなってしまったため資料を探している内にHPを拝見させていただきました。祖父も戦争は二度と起こしてはいけないと日頃言い続けておりましたが、本当に悲惨な体験をしてきたことをこのHPから知ることができました。ありがとうございます。
(future 2005年7月20日)
お爺さんに聞けなかったのが残念でしたね。抑留された日本の将兵は、いろいろと分けられました。兵は早く帰還した方だし、下士官は我々の如く遠く欧州まで行ったり、将校は寒い所で過酷な作業をしたりで、運の良し悪しありました。戦争をして勝っても負けても良いことはない筈です。
(信夫)