皆様からのメッセージ・20
こんにちわ。以前メッセージを送った者です。劇団四季の「異国の丘」をビデオで観たのを切っ掛けに、このHPを知り拝見いたしました。あれから、「自分には何が出来るのか。どうしたらいいのか」と考え始めました。その結果、学校の授業で「戦争」の事を考えるゼミを受講することにしました。(シベリア抑留に関する授業ではありませんが)実際に戦争を体験された方がお話を聞かせてくださるそうなので、心して聴きたいと思います。最近は、シベリア抑留に関する本を読んでいます。「夢顔さんによろしく」、「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」を読みました。ここで見たイラストと同じような事が書いてありました。どちらも生きて帰れなかった方のお話なのですが、希望を捨てずにダモイを信じて生きていく姿に感動しました。学校の授業を通し、自分なりに「戦争に対する自分の考え」を見いだせるよう頑張ります。お体に気を付けて、頑張ってください。
(さーや 2005年4月17日)
戦争の為かり出された一般庶民が兵隊さんになって、どんな家庭の事情があろうとお国の為に銃を持った時代がありました。この様な事が再びあってはいけないと、先日ご他界されたローマ法王も云われたとか。あの方も私と同じ様な体験をされた同じ年代です。
(信夫)
劇団四季の「異国の丘」をビデオで観劇したのがきっかけで、こちらのHPを知り、絵を拝見させていただきました。(「異国の丘」を観劇する上での知識を深めるためにアクセスしたのですが)極寒の地で死んでいった、日本人が居るという事実を忘れてはいけない。知らなければならないと思いました。
(さーや 2005年3月11日)
知らなければならないと同時に、どうすれば未来の平和を築いていけるか皆で考える必要もあると思います。劇団四季の「異国の丘」につきましては、私の父が衣装の時代考証のお手伝いをしました。本当に素晴らしいお芝居でしたね。
(旧ソ連抑留画集HP管理者 木内正人)
シベリア抑留兵士の強制収容所につきましては、シベリアのみでなく、中央アジアにも存在した事は、知られていますが、ウクライナにも有ったという事実については驚いています。ウクライナには、何人の日本人兵士が送られ何人の日本人兵士が無念の死をウクライナでとげたのでしょうか?この悲惨な事実は、後世にもしっかりと、伝えていく必要はあると思うのですが。
(匿名 2005年3月9日)
政府の計算だと60万とされているが、あまり真実では無いと思います。ウラル山脈を越えた向こうの方は知られていないので誰もがびっくりします。我々は1,500人を1梯団として輸送されましたが、他の梯団が何処へ行ったかわかりません。
(信夫)
ウクライナでの抑留地および戦没者の情報を入手したくmailにて失礼します。当地域で無念ながら没した方々の墓地は如何なっているのでしょうか?お父上のご記憶の範囲でお教え頂ければ幸甚です。
(匿名 2005年2月26日)
政治的な墓地は各所にあると思いますが、小生等が直接埋葬した場所はすでに誰にも解らない筈です。ご遺族の方々には聞かせたくないお話です。
(信夫)
ソ連抑留の記事を探していて、このHPにめぐり会いました。風雪は風化したのでしょうか。凍化しかのでしょうか。昇華したのでしょうか。地獄の餓鬼図絵を想像していたのですが、木内様の豊かな人間性で、そこにも人間が居たのを知り、感動しました。実は、私も昭和23年8月に中国から舞鶴へ引き揚げてまいりました。正直ロスケにはあまり良い思い出はありません。一昨年(2003年9月)には最後の関東軍の激戦地、磨刀石も行ってきました。よろしければ、上記URLにその時の記事を書いていますので、ご笑覧下さい。シベリアのお話、又機会があればどうぞお聞かせ下さい。
(けんさん http://www.ken-san.jp 2005年2月22日)
見たまま感じたままに描いた小生の絵は当時の歴史のひとこまであって、風化したり凍化したり又昇華するようなものではないと思います。人それぞれいろいろありますが、それを後世の人達にどう影響されるかを考えてみる必要があると思います。
(信夫)
初めましてこんにちわ。レス失礼致します。私は以前からある小説のきっかけで第二次世界大戦…飛行兵の方の事や、シベリア留置の事などの事実をもっと知りたいと思い、このHPを知ったのですが、私が今まで見てきた戦争体験の絵というものはどうしても受け入れにくいものがありました。ですが木内さんの絵を拝見させて頂き、とても素晴らしいものに感動致しました。戦争というものを問いかけるような、兎に角、言葉には上手く云い表せない感動がありました。きっと、木内さんのような絵を本来心から望んでいたのではないかと想います。私は小学校から戦争について、日本で起きた事など他の学校より少し多めに教えてもらったのですが、シベリア留置というものは実は現在高校生になり両親に教えられたものでした。こういう素敵な絵とメッセージを表現する方がいらっしゃるのに、とても心細くなり、残念に思いました。また、教科書についても同様の気持ちです。木内さんの絵は、本当に「ああ、世界って皆同じなんだ。戦争はあってはいけないんだ。こういう風に、国境の差がなく 皆で笑えるのが本当の姿なんだものなあ、」と暖かく想え、子供から大人までさまざまな人々に受け入れられると私は思います。木内さんの表情豊かな絵は、これからずっと、何世紀も残り見て貰えるのではないか、本当にそう想えました。実際そうだと想うのです。本当に、拝見して良かったと想っております。最後に御家族方のお幸せと御健康をお祈りしています。それでは長文失礼致しました。
(匿名 2004年12月8日)
戦争で勝った国も負けた国も最前線に行くのは庶民であり、被害をうけるのは弱者である女性や子供たちです。戦争はいけません。参戦した我々みんなそう思っています。世界中が仲良くできる筈です。
(信夫)
私は戦争のことに興味がありこのサイトを開いたのは、学校でビデオを見て、戦争は何のためにやるのか知りたかったからです。
(スマイル 2004年11月14日)
戦争は何のためにやるのか?その問いに正確に答えらる人は居ないようです。しかし、戦争をしないように皆が努力することは必要ですね。
(旧ソ連抑留画集HP管理者 木内正人)
はじめまして。こんにちわ。私は広島で日本でも珍しいロシアの現代絵画をご紹介しています。日本はアメリカサイドだった為、
ロシアの情報はいまだにあまり入っていません。私達は歪んだ情報を鵜呑みにしているんではないだろうか・・??とふと思いロシアについていろいろ興味を持ちインターネットを検索していたらこちらのサイトに立ち寄り、以来何度も拝見させて頂いています。私は31歳ですから戦後生まれです。日本が大好きです。私は飲食店もしていましたがその時に86歳のお客さんに、「広島は原爆が落ちて焼け野原になったのに今ではこんなにビルが建っていて、たったの何十年でこんなになった。私は昔を知らないけど、じゃあ今から二十年たったらどんなになってるんだろうか??と考えてもその時みたいにびっくりする程発展するとは思えない」と私が言うと、そのおじいさんは「当たり前じゃ!!わしらは命をかけて日本を守ったんだから・・・」とおっしゃってました。それを聞いて「あっ!! ほんまだ!!私はいくらがんばっている。と言っても命をかけた事はないし、当たり前に生きているつもりだったけど、おじいさん達が守ってくれたからだ・・」と雷に打たれたように思いました。命をかけて守ってくれた日本を私達は誇りに思わないといけませんね・・。と、その時思った事を思い出しながらいつも拝見させて頂いています。特にお相撲みたいなのをする時「ちいさな私の為に負けてくれていた」というところは何回見ても泣いてしまいます。私は広島のギャラリーですからまたいつかご招待出来れば・・と思います。
(小椋 美由紀 http://www16.ocn.ne.jp/~artsonce/ 2004年10月19日)
絵でも文でもそうですが、嘘のない真実がある時、それは多少表現が下手でも人の心を捕らえます。人間は強いようでも弱い、弱いようでも案外強いんです。分に相じて無理をせず、事に当たればそれなりに人の心に訴えるものが完成するのだと思っています。
(信夫)
私は満州国新京で生まれ現在千葉に住む65歳の男性です。今年の夏、ソ連抑留中死亡者慰霊巡拝団に加わりチタ・イルクーツク州の日本人墓地を訪れました。私の父は20年の5月召集兵として入隊するも8月15日の終戦とともに捕虜となりシベリアに連行され21年11月に病院で亡くなっています。父の収容所の様子がぜんぜんわかりませんが、今般、木内信夫様の旧ソ連抑留画集があるのを知りました。素晴らしいできばえで感動しました。父の抑留中の生活の様子がわかる様な気がします。本当にありがとうございました。
(小野剛生 2004年10月2日)
我々現役20歳前後の兵と40歳近い召集兵とでは耐寒力の差があるだけでなく、お国の為に死を覚悟した兵と家族の為に生還しなくてはならない召集兵とではストレスの差もまた大です。どんな思いで死んでいったか・・我々生き残りは、その辛い思いを後世の人に伝えたい。
(信夫)
戦争を語り継ごうのリンク集に最近掲載されたのをみて、内容を拝見しました。他の体験談は、文字主体で中には読みづらかったり、理解しがたいサイトもありますが、当サイトは漫画で表現をされており、文字を読みながらイメージをつり上げ無くてもよく大変分かりやすかったです。これからも若い人たちに戦争体験を伝えていってください。 (^<^)
(匿名 2004年9月26日)
戦死された友や凍土に埋めてきた友の為にも、次代を継ぐ若い人達に伝えることが旧軍人の義務と思っています。
(信夫)
読んで胸が熱くなるのを感じました。ロシア抑留という言葉は、新聞などで聞きますが、内容をしったのは初めてです。「ムシロ旗でのトイレ」とは、なんと惨めな扱いでしょうか。よく、生きてお帰りになりましたね。原画はたいへん、説得力を感じます。ありがとう、ございました。
(石田 孝 2004年9月15日)
しっかり内に隠れた実態をみてもらい嬉しく思います。世界中の一般人は皆同じ思いで生きています。教育は学歴とは別です。正しい教養が大切と思います。「ムシロ旗」になった時代もありましたが、カマス塩の袋です。
(信夫)
私は学校卒業後中国に渡り、1945年入営の為帰国。地震、空襲、食料難等を経験しましたが、シベリヤ抑留軍人の皆さんのご苦労は聞き及んでいましたが、この素晴しいHPを拝見し一層その感を深くしました。特に「つららになる涙」「泣いてくれるなナターシャ」のくだりは私も泣いたり、笑ったり、有り難う御座いました。
(jyaton http://jyaton.web.infoseek.co.jp/ 2004年8月29日)
抑留当時の事は忘れられないと云うより、忘れてはいけない思い出として生きてゆきます。戦争の産んだ悲劇は、敵も味方も同じです。
(信夫)
昨日8/15にシベリア抑留経験のある祖父が80歳で他界しました。祖父がどんな経験をしたのか今更ながら知りたくなり検索した結果このHPを知りました。祖父は何も語ってくれませんでしたが(特に聞かなかっただけかもしれません)このHPのお陰で祖父の知らない一面を知ることが出来たような気がします。たくさんのイラストありがとうございました。
(理絵 2004年8月16日)
当時の男は、苦しかった話を妻子にはしなかったと思う。あなたのお爺さんも、頑張って寒さと飢えに耐えた強い兵隊さんだったと思ってください。
(信夫)