皆様からのメッセージ・19
イラストを拝見しているうち、目頭が熱くなり、実際に抑留を体験された方の、ダイレクトに心へ働きかける力に感動しました。また、素朴な1人の日本人としての視点から作品を描かれていて、非常に魅力を感じました。戦争体験のある方は年々減っていってるので、私達のような年代が戦争を知る機会はもっともっと必要だと思います。
(雷文 2004年8月14日)
80歳以上になると、生き残った戦友もかなり他界してしまいました。8月15日になると必ず戦死された友の為に反戦画を書いて暑中見舞いにしています。
(信夫)
戦争の虚しさを感じ入りました。人間は本当に愚かな真似をします。しかしながら、人に辛くあたることしか出来ない方もいれば、優しい方もたくさんいらっしゃるのだと思いました。私は戦争を知りません。何も知らない者がこのように申すのは憚りがございますが、私は自国の犯した罪と、負った傷を知っていなければいけないと思うのです。そのような想いからこのサイトを訪ねました。どうもありがとうございました。
(匿名 2004年8月6日)
金メダルを競い合いまた人間の限界に挑むオリンピック選手諸君のように、戦争ではなく世界平和の結束を望みたいですね。敵味方を問わず、各国の戦死した多くの犠牲者の為にもそう願いたいです。
(信夫)
最高。
(マッチョ 2004年7月28日)
ありがとうございます。特にどのあたりが最高だったのか書いて下さるとよかったと思います。
(旧ソ連抑留画集HP管理者 木内正人)
絵画のページを辿るうちに、こんな素晴らしい絵と文章に会えるとは、思いも依りませんでした。黒竜江を前にしてシベリアを見て兵隊生活をし、ソ連の侵攻前に内地に帰って、後に多くの戦友を失った私には拝見しながらも、無き戦友の姿が重なって写り涙が止まりませんでした。私も本年85歳、苦い戦争時代を木内信夫さまもご一緒に過ごした者として、一人でも多くの方々にページを開いて見て頂きたいと心より願って居ります。私も絵を描いておりますが、絵が言葉を超えると言う事を痛感致しました。誠に有り難う御座いました。益々のご健康をお祈り致して居ります。私のホームページお暇な折りに見て頂ければ幸甚です。
(萩原輝治 http://www1.kamakuranet.ne.jp/mituharu 2004年7月25日)
素晴らしい作品の数々に感嘆いたしました。また「絵が言葉を超えると言う事を痛感致しました。」素晴らしいコメントをありがとうございます。歴史の事実を語るのに、絵は最も優れた方法だと思います。少なくとも日本人だけでなく、外国の方にもそのメッセージが伝わることと思います。
(旧ソ連抑留画集HP管理者 木内正人)
"SLAVYANSK"の情報を探していてこのHPを見つけました。6月、11日より19日まで"SLAVYANSK"に行ってきましたが、交通の便利が悪く行きかえりに5日も掛かり、現地は3日半の滞在でした。しかしながら、"KIEV-SLAVYANSK"間は寝台車を使った為、あまり疲れませんでした。思った以上の田舎町で、ソ連崩壊後大きな工場が2つも閉鎖されたそうで活気がありません。インフラの整備も遅れ道は荒れ放題の穴だらけで住宅や設備の老朽化が目立ちます。その分自然がそのまま残り、人々は素朴で心温まる歓待を受けました。当地にはサナトリュウムが4つある為、ウクライナ、ロシアばかりかヨーロッパからも大勢の人々が訪れるとの事でした。内部の見学をお願い致しましたが、私をどこかのシャーナリストと勘違いしたらしく、体よく断られました。 何人かに日本人やドイツ人の墓の有無を聞いてみましたが、知っている人はいませんでした。私と同年輩のタクシーの運転手などは日本人を見たのは初めてと大覇者議していました。焼き鳥や蕎麦飯など食べ物も日本人によく似たものが多く、岩塩を体に塗りつけながらの蒸し風呂もなかなか興味のあるものでした。 また訪問する機会がありそうですので、再度大戦犠牲者の墓地を探して見ます。なお、私のアドレスはまもなく変わります。
(ウクライナの麦畑 2004年6月24日)
我々の抑留されたスラビヤンスクはキエフ、ハリコフが近い広大な地区でした。ドイツ人や日本人の遺体を埋めた小生も埋めた場所がわかりません。
(信夫)
連絡・MEGさんへ
6月12日にメッセージを下さったMEGさん。Eメールが記入されていなかったのでご連絡がとれない故、このページにてご返事いたします。ご質問の旨父に聞いてみたところお探しの方は存じ上げないそうです。一度、厚生労働省に確認を取られてみてはいかがでしょうか。
(旧ソ連抑留画集HP管理者 木内正人)
やはり、ソ連主義は模範的な人道主義です。
(唐 2004年6月11日)
どこの国も庶民は戦争を好まず人道的です。旧ソ連だけではありません。旧日本軍にも心ある将兵もいました。誰だって皆平和を願ってるんですよ。
(信夫)
美術関係のサイトをネットサーフィンしておりましたら、このサイトに出会いました。大変素晴らしいページで感動しております。わたしは現在モスクワでロシアの方々に日本語を教えております。国境を越えた人と人との暖かい絆を描いたこのページを、ロシアの方々にも紹介したいと思いますので、わたし達のホームページにリンクを貼らせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?よろしくお願いいたします。
(Reiko http://www.geocities.jp/ru_jp2004/index.html 2004年6月5日)
リンク大歓迎です。当HPのリンクページは自動登録式なので、よかったらReikoさんのHPもご登録下さい。また、ぜひロシアの方々にも「旧ソ連抑留画集」をご覧になって頂きたいと思っています。作者である父はロシアの方々に見て頂きたいと常々言っているところでした。争いの絶えない今こそ、国境を越えた心の絆が必要だと思っています。Reikoさんのモスクワでのご活躍を応援しています。
(旧ソ連抑留画集HP管理者 木内正人)
はじめまして。ウェブサイトを見てメールさせて頂きました。私のロシア人の友人が元日本人捕虜の刀を持っておりました。可能であれば、持ち主に返したいとの事でした。刀の持ち主の名前は、”はたの(漢字不明)”という事でした。 木内様のお知り合いで、”はたの”様という方はいらっしゃいませんか?大変恐縮ですが、ご連絡頂ければ幸いです。必要であれば、”はたの”様の写真をお送りさせて頂きます。 よろしくお願い致します。
(Papatangohotel 2004年4月7日)
父に確認したところ、そのような方は存じ上げないようでした。お役に立てなくて申し訳ありません。60万人もの抑留者の中から探し出すのは大変なことと思います。何か手がかりがあるといいですね。
(旧ソ連抑留画集HP管理者 木内正人)
はじめまして。クララさんから飛んできました。私は、スリランカの子供達を支援しているものです。貴様の作品をHPで拝見させていただきました。悲惨な戦争の一辺を見事にご自分の力にしている強さに深く感銘致しました。原画展、またお話が伺える機会がありましたら、是非伺わせていただきたく存じます。
(Neige http://www.rudy.co.jp/neige/ 2004年3月23日)
自分だけの記録で描いた絵が皆さんのお役に立てた事を嬉しく思います。ボケてもこの世に私が居たことが長い昭和史中微々たる証明になることでしょう。
(信夫)
正月3日目、劇団四季の「異国の丘」をテレビ鑑賞し、シベリア抑留のことをもっと知りたくて、貴ホームページを閲覧しました。大変わかりやすく、拝見させていただきました。劇では悲惨さのみがクローズアップされていましたが、人間味あふれる面もあったことで、多少安心?しました。しかし、絵や言葉では表現できない辛い面苦しい面、いろいろあったのだと思います。平和の大切さを私も子供らに伝えていきたいです。
(ひかり 2004年1月3日)
劇団四季の依頼もあって、演出部の方々と抑留の話や当時の服装等についていろいろインタビューされました。とてもリアルに演技されてますね。小生は強健だった為か元気に帰国しました。
(信夫)
第二次世界大戦の頃の人々の暮らしや食べ物について調べているのですが、今と比べて食べ物は,どのようなものを食べていたのでしょうか。
(1頁 2003年12月26日)
内地では配給米で一人何合だったか忘れましたが、その他には芋類や麦や粟もありました。魚はイワシ、アジ、サメもよく出ていました。量はあまり多くありません。小生は航空隊だったためか、とても食には恵まれていました。キャラメルやおしるこ、大きなおまんじゅうも毎日のように食べていました。そのかわり明日の命は保証できない戦隊でした。
(信夫)