皆様からのメッセージ・18


 自分は今19歳の専門学生です。若い世代の人は戦争について無関心の人が多いのが現状です。私の場合は、小さいころから勉強は嫌いでしたが歴史に興味があり、戦争の歴史についても多少の知識を持っていました。ネットで偶然このHPと出会い、何度も拝見させてもらいました。学校で習うことや、知識で得られるものとは、まったく別の物がこのHPにはあると思います。木内さんの絵と言葉に出会えて本当によかったです。今、イラクや北朝鮮問題などで、日本も非常に難しい時期に来ているのだろうと思います。原点に帰る意味でも多くの人がこのHPで、語られる真実に耳を傾けるべきだと思います。これからもお体に気をつけてがんばってください。
(Hiroki 2003年12月5日)

 戦争はいやだなと思いました。上手く言えないけれどとにかく震えました。今の世界情勢を考えると涙が止まりません。このサイトを友達にも広めたいと思います。これからも頑張ってください。
(みほこ 2003年11月26日)

 ウクライナの抑留体験の画集を拝見しました。どの絵も、のびのびとしていて作者の性格がよく出ているとおもいます。自分は来年の夏、ウクライナの友達に会いにいくつもりで、そのついでに日本兵の抑留地、又は何か彼らの墓地でも残っていれば訪ねたいのです。そしてそれについてレポートか、簡単なエッセイでも書きたいと考えています。信夫様の抑留地、スラビヤンスク(Slavyansk)とクラマトールスク(klamatolsk??)には墓地や収容所の跡は残っているのでしょうか。
(テル 2003年9月23日)

 終戦記念日ということもあり、ネットサーフィンでココにたどり着きました。絵の素晴らしさもさることながら、文章の面白さに、少年時代から引き揚げまで一気に読ませていただきました。つらく悲しい時代も、信夫さんは強い感受性と前向きな姿勢で、素敵な人生を過ごされてきたのですね。その、人間的な強さに感動し、私も見習いたいと思いました。とくに、他国の捕虜の方に譜面を渡して日本音楽を演奏してもらった話、「別れのときはどの国の人も涙するし手を握る」と言うようなくだりには、涙してしまいます。本当に良いものを見せていただきました。ありがとうございました。
(もこもこ 2003年8月15日)

 お返事をありがとうございました。妻のサイトにリンクを設けました。よろしくお願いいたします。妻は帰省中ですので、妻が戻り次第、日本語が全く分からない妻からこのサイトの感想を聞き、私の翻訳でお返事をしたいと思っています。妻は今、ウクライナ西部に陶芸の勉強に行っています。ポーランドに近い街ですので、文化的にもポーランドに似たところがあるそうで、陶芸も少し異なると言っていました。さて、抑留経験の絵と少しの言葉で、当時の様子がリアルに脳裏に浮かぶような気がします。そして、抑留というつらく暗いイメージが前面に押し出されてなく、抑留者と被抑留者、人と人との暖かさが伝わってくるようです。できれば、もっと挿絵と手記を読ませていただきたいと思うのは私だけではないような気がします。後世に伝える日本人として、また世界の一人として。
(TOM http://loratom.hp.infoseek.co.jp/ 2003年8月15日)

 はじめまして。戦後、不法にソ連国にて強制労働されたことについて描かれた内容は、我々戦争を知らない者たちへのメッセージとして大切にしなければならないと思います。また、亡くなられた多くの方がいたからこそ、今の我々があるわけですし、今を大切に生き、今の平和を子供に伝えたいと思うと同時に、ただただ、感謝する次第です。実は、私の妻はニコラーエフ出身のウクライナ人です。父はロシア人、母はウクライナ人です。そして、妻も陶芸で身を立てていた無名の芸術家です。彼女のホームページもございますので、お越しになってください。できましたら、相互リンクしていただければ幸いです。
(TOM http://loratom.hp.infoseek.co.jp/ 2003年8月14日)

 うちの祖父は満州で長年衛生兵で従軍し終戦間際に上官からお前は職業軍人やないから帰れるうちに内地に帰れといわれ終戦を神戸で迎えれた。あの時の上官がいてくれんかったら生きて日本には帰れなんかったやろういってました。シベリアは北満の比じゃない位寒い。何ぼ体格のいいわしでもあかんかったとも。180センチほどの体躯でしてた。多分画集には表現されていない幾多のご苦労をなされた事と思います。多分今の時代の人間に想像出来ないような事も。
(昭和42年生まれ 2003年8月10日)

 暮らパソネットで紹介記事があり、拝見しました。戦後世代で、悲惨なものを文字であれ絵であれ表現したものは、気の毒と思いつつ、見たくないと言うのが本音でした。絵本なども日本のものは、これでもかと言うほど「泣け!」と言われるような表現が多いからです。そんな表現をしなくても泣けるものは泣けます。このページの画集がそうでした。笑えるような場面も、悲しさは十分伝わってきました。ありがとうございました。私の周りの方々にもお薦めしたいと思います。
(高橋登美子 2003年8月9日)

 私は、徴兵検査を最後に受けた年代です。大東亜戦争と明治以降の歴史を正しく見直さなくてはならないと日頃思う者です。このHPはゆっくり観させていただきます。戦争はあってほしくない。世界の平和は享受したい。絵に描いた餅の平和ではなく、祖国を守り愛する気持ちと備えを伴った国づくりの中に平和を希求したい。
(小松 基壽 2003年8月9日)

 私も満州で満蒙開拓青少年義勇軍としてロシアの捕虜でした15才でしたのでシベリヤは免除されましたが、お父様の画日記拝見しておおらかさに驚きです(数字が苦手)の項同感です皆で露兵を馬鹿にしたものです。後に管理下におかれた中国保安隊、朝鮮人民義勇軍も人種差別はありませんでした、博多港に着いたときの嬉しさ同感であります、大陸にいるとおおらかな気持ちになるのは本当です私もプラスの方向でと このhpで学びました。ありがとう!
(金子康政 2003年7月28日)

 私の祖父はシベリア抑留体験者です。4年4ヶ月という長期間を故国から遠く離れたシベリアで過ごしました。私が大学で現在近現代史を専攻しているのも祖父の影響が大きいのです。この度、大学のレポートで祖父の体験談を「ライフヒストリー」として聞き取り調査することとなりました。その事前調査の段階でこのホームページを知ることとなりました。聞き取り調査では実に様々なことを聞くことができました。その調査後に、祖父にこの絵を見せたところ、非常に懐かしそうにしながらまた色々なことを教えてくれました。この画集にかいてあることと同じことを言っていることもありました。(ソ兵の計算やトイレ、女性の美しさ等々)聞き取り調査とこのホームページとの出会いは自分にとっても祖父にとっても最高の体験になったと思います。本当にありがとうございました。
(オヨヨ 2003年7月21日)

 現在、日本語教師の勉強をしています。日本語教育史で満州事変など調べておりましたら、このHPにたどりつきました。戦争を知らない私たちには、戦争とはまるで未知の世界です。作者が体験し、感じたこと、苦労したこと、戦争に対する意見や反省など、もっと多くのことが知りたいです。このようなHPがもっとたくさんできて世界が平和になればいいな〜と思います。
(ミー 2003年5月7日)

 私の祖父は満州で終戦を迎え、家族で引き上げとなりました。身重だった祖母がいたことで引揚者の列からはじき出され、その間に祖母が出産したそうです。でも祖父たちを置いていった引き上げ団は中国人の襲撃に全員なくなったそうです。その中で、生まれた父の妹(生きていれば私の叔母)が亡くなり、父の弟(私の叔父)は中国人に買われそうになり、中国残留孤児になるところだったそうです。祖父は体が弱かった事もあり、軍隊の経験はないそうですが、民間人の戦争をいやというほど体験しています。戦争は悲しいものです。このHPを見て、軍隊の辛さもよくわかりました。戦争についてあまり多くを語らなかった祖父は今、子供にかえり、昨日の事も思い出せない状況です。それがいい事なのかはわかりませんが、幼子のような表情は、過去の辛い出来事を忘れてしまったからできる顔なのだと思います。たぶん祖父は、今が一番幸せなのかもしれません。祖父の代わりに、私たち世代が、次の世代に戦争の事を伝えていきたいと思います。素晴らしいHPを作られた事に感謝をいたします。
(キコ 2003年4月19日)


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