皆様からのメッセージ・16
とてもいいHPを見ることができました。今高校2年生で来年は受験生です。あのころは拒否はできないようにマインドコントロールされていたと思います。大義名分だと誰もが信じたのでしょう。このあいだ学校の宿題で「9条」に関することのレポート提出がありました。私くらいの子で、繁華街などで訳のわからないことばかりやっている子は前線にでもいって鍛え直したほうがいい!と書いて出しました。マッカーサーが厚木に降りたったとき、君たちは14歳の子供だ、と言ったそうですが、でも私たちは、今、大人になりました。戦争は絶対にありませんから安心して老後を過ごしてください。
(ナナ 2002年9月25日)
戦争が無いとは断言できません。我々老人はよいとしても、これから若い人達のことを心配しないではいられません。朝鮮半島の件もあるし、中東ではまだ戦っています。人類が戦いをしなくなるには時間がかかりそうですね。
(信夫)
つらい体験をさらりとコンテに託して、戦争を知らない私世代にも様々の思い伝わってきます。今回の事件が抑留、拉致体験者の方々の『悪夢』の記憶、出来る限り呼び戻さないで収束して欲しいものです。どうも貴重な作品ありがとうございました。これを伝えるのは私たちの役目ですね。決して悪夢を繰り返さないために...。
(アシュネ 2002年9月21日)
やはり戦後生まれの人に解ってもらえるのは嬉しく思います。小生も、生あるうちは戦争の空しさを後世に伝え続けてゆくつもりです。戦死した友の為にも。
(信夫)
原画展の記帳拝見しました。同じ絵を見て他の方が何を感じたのか。難しい題材ナだけに気になります。いろいろな方の思いがずっしりと胃の中に沈んできた感じです。読んでいるうちに泣けてきました。そのまま公開されたのは正解だったと思います。字に気持ちがでているから。改めて良いものを見せていただき、ありがとうございました。
(匿名 2002年9月7日)
早速、ご感想記帳を読んで頂きありがとうございました。原画展はHPと異なり、実際の戦争当時を知るご年配の方々の記帳が多く、とても貴重なご意見が頂けました。このようなご意見ご感想をインターネットで紹介することこそ、戦争抑止に役立てるのものと思っている次第です。これからも寄せられたメッセージを大切にして行きたいと思います。
(旧ソ連抑留画集HP管理者 木内正人)
たまたま、”ロシア”のページを検索していたところこのHPを見つけました。敗戦後、ロシアに拘留された兵隊・民間人がいたことは知っていましたが、このページで初めて知らされたことが多々ありました。挿絵も温かみのある絵で良かったです。まだ、十代の身で生意気かもしれませんが戦後57年が過ぎ、戦争に対する認識・知識が薄れてきている世の中と感じています。姉妹サイトの方も後で回らせていただきます。では。
(まる 2002年8月18日)
十代にしてはとても理解のあるメッセージで嬉しく安心して読みました。これから大きくなってもこの抑留画を思い出して、平和主義の人間で居て下さいね。
(信夫)
清瀬市での原画展、拝見させていただきました。つらい記憶をよくここまで優しく描けるものだと、感心しました。あの時代、日本人も大変な思いをしたのは事実ですが、ソ連の人々も戦争という不幸な事件に巻き込まれ、同じように不幸な目にあっていたはず。つらい労働の想い出以外にも、そんな相手に対する思いやり、彼らに受けたちょっとした親切などが描かれた作品が多く、ロシアに多く友人をもつ私としては、個人的に非常にうれしく感じるとともに、戦争というものの恐ろしさを改めて思いました。普通の人々がなぜ戦い、殺し合わなければいけなかったのか。ソ連の兵士たちの言う日本人をあらわす言葉「ヤポンスキー」は実は「日本の」という形容詞で正式には「ヤポーニェッツ」と言います。日本人という正式な言葉を知らないということは、きっとソ連の兵士たちは日本がどのような国であるか、あまり知らなかったのではないかと思います。きっと知っていたのは、敵陣の東洋の島国程度なのでしょう。どの国もそんな風に相手のことも良く分らず戦ってきたのですね、きっと。あの時代とは言うけれども、現在もなお、戦争を声高に叫び、それぞれの正義を掲げて戦っている国があります。信じがたいことですけれど。一体いつになったら本当に皆が平和に生きていける、そんな地球になるんでしょうね。などなど、取りとめのないことを考えながら、絵を見せていただきました。貴重な時間がもてました。ありがとうございました。
(あにゃ 2002年8月18日)
ヤポンスキーもロスキーもアングルスキー、マジャールスキー、キタイスキー、カレンスキー、ゲンルマンスキー、西洋も東洋も戦争を好む庶民は一人も居ませんでした。国民性は違っても、人間性は少しも違っていませんでした。不可能かも知れないけど世界の平和を信じたい。ロシア語を知る友ドスビアーニア。
(信夫)
清瀬まで足を運んで頂き本当にありがとうございました。世界が向かっている方向はまったく見えませんが、今私たちの居る場所は尊い犠牲に建った“平和”の上です。そして平和を後世に残す義務があると思うのです。そうした義務を怠ったとき再び戦争が起こるかも知れません。会場に置いてあるノートにも、大勢の方々から暖かいメッセージを頂いています。いずれその方々のメッセージも当HPでご紹介したいと思っています。
(旧ソ連抑留画集HP管理者 木内正人)
初めて、お便りします。僕は今年の夏にロシアの沿海州に抑留中死亡者遺骨収集派遣に行く者です。僕は今、日本青年遺骨収集団に所属しています。今度、派遣前に抑留についての勉強会を行う事となっていますが、その際にこのホームページを資料として使わせていただけないでしょうか?けっして、ほかの用途には使用いたしませんのでよろしいでしょうか?御検討のほどを宜しくお願いいたします。
(宮川芳一 2002年8月8日)
父の了解を得ました。資料として大いに活用されて下さい。ロシアでの遺骨収集という大変なお仕事で若い方が活躍されていることに、父も喜んでおります。無事なご帰国をお祈りしています。
(旧ソ連抑留画集HP管理者 木内正人)
木内さん、初めまして。私の父もシベリア抑留経験者で、父のことを卒業論文に書こうと思っていてこのHPを拝見しました。絵も文章もとても魅力的でした。父の話からだけでは伺えないことを知ることができました。サワチヒサヱさんが随筆に、戦時中も女学校で自分たちは他愛もないことに笑い転げていたと書き、いつの世も女学生とはこうしたものであるらしい、と締めくくっていたのですがそれを思い出しました。若者の大らかさや、しなるようなこころの強さを感じました。だけどそれはきっと木内さんご自身のちからなのだろうとも思います。木内さんの帰国後の写真、とても可愛らしく素敵ですね!
(美和 2002年6月19日)
若い人達がもし卒論で抑留兵の事をテーマにしてくれたら、戦死した戦友達も天国で喜んでくれることでしょう。今では生き残りの兵もボロボロだけど、可愛いおじいさんになっています。ナンチャッテ。
(信夫)
先日はお世話になりました。この画集を拝見したところ、その表現の奥深さに正直驚かされました。私の父もビルマ(当時)の戦地での出来事を、たまに聞かせてくれました。そのことを思い起こさせるような絵画で、非常に興味深かったです。葉書、本日自宅に届きました。ありがとうございます。私も父のいない父の日を初めて迎え、さびしい思いを致しました。またご連絡いたします。お葉書楽しみにしております。
(増田 薫 2002年6月17日)
早速、見て頂いてとても嬉しく思っています。折りをみて柏でお逢いしたいですね。明るいチャーミングな奥様にも宜しく。
(信夫)
極めて懐かしい生活図を拝見させてもらい有難う御座います。私もウラジオ近辺で1.8月抑留され同様の経験をしたので2倍の懐古図です。私も現在水彩画を趣味で絵画しておりますので今後とも宜しくお願いします。
(植村 琢二 2002年5月2日)
貴方と小生では共通点が3つありますね。70代後半、抑留、好奇心。こうなるとやっぱり一度お会いしたくなりますね。絵葉書の文通しませんか。
(信夫)
はじめまして。戦争に関するサイトを見ていて、このサイトを見つけました。私の祖父も戦争体験者なので、多くは語りませんが、つらいこともあったと思います。今度、田舎に帰ったら、祖父にこのサイトを教えてあげようと思います。
(のもちー 2002年5月1日)
あなたのお爺さんも小生も、当時は世界の平和の為と信じて命を惜しまず戦ったのです。そして敗戦。良い思い出がある筈がありません。語りたくなければ、それはそれでそっとしてあげて下さい。ご苦労なさっている筈です。
(信夫)
私の祖父も、シベリア抑留で、最後の引揚者だという話は聞いていたのですが、祖父本人からはあまり当時の話を聞く事もありませんでした。10年前に亡くなりましたが、先日、日記のような物を見つけて、読んでみました。たんたんと思い出を綴っているような資料ですが10年以上の抑留生活で、つらい事も多かったと思うのに生活の中でのなんとなくほのぼのした(?)感じの出来事が書いてありました。(うまく表現できません・・・)今回、木内さんの画集を見て、祖父の日記を読んだ時と似たような感情を持ちました。このようなHPを見る機会ができた事を感謝いたします。
(おおかま 2002年4月12日)
お爺さんの青春時の貴重な10年は長かったと思います。小生の絵がお役に立ててよかったですね。旧ソ連の一般人はみんな気のいい人達なので、ロシア語が解る様になれば楽しいこともあった筈です。
(信夫)
劇をやっているのですが、そこでなぜ、日本は戦争をしたのか?という話になり、皆がいうには金のために侵略戦争をした。ということなのですが、あの時、日本が朝鮮や満州を手放してその後どことも戦わないということは可能だったのでしょうか?僕は無理じゃないかな?と思うのですが、皆は出来たといってます。当時の人はどう思っていたのでしょうか?よろしければ教えてほしいです。
(村田 麦 2002年4月1日)
朝鮮や満州を手放したとしても戦争になっていたでしょう。当時のアジアの殆どは先に欧州の国々に侵略されていたので、情勢から見て日本に圧力がかけられるのは解っていたからです。また小生たちはアジアの同胞の開放のためだと教育され、純粋な気持ちで出兵しました。しかし、それで流した血はあまりに多すぎます。なぜ戦争をしたのか?と云うより、どうしたら世界から戦争を無くせるかと云うことを、いろいろな人の意見を参考にして劇の仲間と話し合って下さい。
(信夫)