皆様からのメッセージ・14
昭和19年の戦中生まれですが戦争体験は全く無い者です。久しぶりに戦中戦後の歌を聴き、歌詞に、分からない単語があるのを妻と考えたりして、満州を思い出し検索した結果ここにたどり着きました。数年前、伯母夫妻の、伯父が亡くなった時、それ以前から楽しそうに語ってくれた満州の体験を伯母に自分史として書いて残したらと勧め、タイピングは私が行いました。伯父は大尉(中尉?)として、ハルピンで敗戦を迎えました。このとき伯母は29歳、最愛の人唯一の身内、しかも外地での生き別れを考えますと、今、読んでも涙が出てきます。いかに不安であったろうか、早く内地へ帰りたかったであろうかと。今、私の娘は28歳になろうとしています。対比してみますとどんなに頼りなかったであろうと、親としてもどんなに心配したであろうかと考えざるを得ません。残念ながら、伯父は他界し、シベリヤでの生活は聞けずじまいでしたし、自分史を書いてくれた伯母も、平成元年に、天国へ召されました。今となっては、当時を知る手掛りは、どんどん無くなってきつつあります。戦争体験は、決して風化させてはならないと思っていますが、聴き語りでは迫真に迫れない事も事実ではないでしょうか。お父様の描かれた絵を見せていただいて、こんな方法もあるのだと実感した次第です。また寄せて頂きますのでよろしくお願いします。ページ表示の都合により一部省略させて頂きました。何卒ご容赦下さい。(HP管理者)
(田中純夫 2001年11月3日)
戦争を仕掛けたわけでないお母さんが一番苦労してまいりましたね。でも皆さんが今幸せになったなら母さんも天国で満足していることでしょう。
(信夫)
こんにちは。田中幸司といいます。以前(今年6月)にメッセージを寄せさせていただきました、大学院生です。前回は修了論文のための転載のお願いとして投稿させて頂きましたが、今回は久しぶりにサイトを拝見して思った事などを書かせて頂きたいと思います。まず、クララさんの平和記念フォーラム2000レポートを読ませて頂いて感じたのですが、いろんな意味で「知ること」と「知らせること」が、とても難しいということを感じました。私を含め、今、自分が生きている平和への興味というか意識というか感謝を持っている人は自然と知る機会を見つけていくものだと思いますが、悲しいことに私の身近なところを見渡してみると、何かコトがない限り平和に対して思いを巡らす事に意識が行かない私と同年代の人(ちなみに私は24歳です。)が多いように感じます。そういう意味でもインターネットという手段や木内さんの姿勢はすごく大切で、尊敬します。また一方で、様々な思いや立場で苦しんでいる方々がいらっしゃって、私達の「知りたい」という欲求だけで無神経に・安易に触れてはいけないところがあるのも事実だと思います。自分も今は美術を学んでいる立場ですが、その時そのとき自分の置かれている立場で、平和について”思い”を巡らせていられる様にしたいと思います。ページ表示の都合により一部省略させて頂きました。何卒ご容赦下さい。(HP管理者)
(田中幸司 2001年10月27日)
当時の教育もそうでしたが、ひたすら国を思う若者がどこの国にも居て不思議はないと思います。ただし上司の好判断を要します。
(信夫)
〜貴サイトへの感想がるいネットへ寄せられています〜 はじめまして。私は、“るいネット”渉外担当の田中道世と申します。“るいネット”は、「厳選○サイト」〜みんなで作る検索サイト〜を中心に、本当に良いものを自分たちの手で作り上げていくことを目的とした協働サイトです。このたびは、上述の「厳選○サイト」にて、貴サイトが推薦されており、当方で拝見した上で、厳選サイトのひとつとして、登載させていただきました。いろんなことがあった「戦争」を、実感レベルで捉えられる、本当に貴重なサイトだと思いました。平面的なイメージしかなった当時の状況がじんわり伝わってくる、お父様の絵は魅力的でとても温かいものでした。‘るいネット’にて、このような素晴らしいサイトを紹介させていただけることを、大変光栄に思います。この、「みんなで作る検索サイト」を謳う「厳選○サイト」では、それぞれのサイトに、読者による「感想投稿」が寄せられております。貴サイトへも、何名かからの感想投稿が入っております。是非一度、ご覧になっていただけたらと存じます。→ 厳選○サイト(みんなで作る検索サイト)
に入って、ページの上部にて、キーワード検索して頂けます。サイト名「抑留画集」にて部分検索出来ます。ページ表示の都合により一部省略させて頂きました。何卒ご容赦下さい。(HP管理者)
(田中道世 http://www.rui.jp 2001年10月9日)
貴HP、拝見させていただきました。とても情報密度の高い、素晴らしいサイトですね。また、私たちのHPに対する心温まるメッセージばかりで本当に嬉しくなりました。当HPは今月で開設5年を迎えます。ネットから寄せられる暖かいメッセージによって、今日まで続けることができました。これからも頑張って続けて行きたいと思います。また、当HPにあるリンクページは自動登録式なので、ぜひ“るいネット”をお好きなコメントで登録していって下さい。今後ともよろしくお願いいたします。
(旧ソ連抑留画集HP管理者 木内正人)
すばらしいホームページに感動しました。以前に舞引揚記念館でシベリア抑留生活の様々な展示を見て非常に衝撃をうけました。しかし木内氏のスケッチは筆舌に尽くしがたい抑留生活を体験されているにもかかわらずご自身の感性のままに悲惨な体験を肯定的に描写されバイタリティーに溢れた収容所生活が、まったくそんな体験のない戦後世代で平和な時代に育った者にはより強く平和の尊さを訴えているように感じます。このような体験を言葉でなく感性として次の世代へと伝えていく上でほんとうにすばらしいページです。ぜひ私の個人ページにリンクさせてください。よろしくお願いします。
(荒西 完治 http://www2.osk.3web.ne.jp/~aranishi/ 2001年10月6日)
戦争が終われば敵味方なく地球上の人間同士として一緒に働き一緒に楽しむべきと思います。憎しみ合うより、先ず許し合うべきでしょう。
(信夫)
当HPはリンクフリーなのでご自由にリンクされて下さい。また、当HPにあるリンクページは自動登録式なので、ぜひ荒西さんのHPをお好きなコメントで登録していって下さい。今後ともよろしくお願いいたします。
(旧ソ連抑留画集HP管理者 木内正人)
私は現在大学院生です。ふとたどりついたこのページを、興味深く拝見させていただきました。美術を勉強中なのですが、シベリア抑留画といえば画家の香月泰男さんしか知らなかったので、信夫さんの絵はとても新鮮に感じられました。一枚一枚がとてもさわやかに、朗らかに描かれていて、つい全部を一気に見てしまいました。またこのページに立ち寄らせていただこうと思います。
(T.W http://www.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~bijutsu 2001年9月18日)
抑留画はほとんど苦しい悲しい絵ばかりですが、旧ソ連の一般人も一般兵も戦争に対する嫌悪は日本と少しも変わりません。小生がそれが云いたかったし、描いて伝えたかったのです。
(信夫)
とても感動しました。当時、捕虜になって大変苦しんで自殺された方々などのお話を読んだばかりでしたので、それよりは安心しました。絵の中では希望を失わず、明るく描かれていますが、きっとご苦労もあった事と思います。私たち子孫のためにありがとうございました。ところで出兵されたのは学徒出陣ですか?あの、白黒に色をつけたという写真、びっくりしました。まったく今まで見た事の無い現実的な感じがしました。他の戦時中の写真もあのようにカラーに出来たら、もっと現実味を帯びて見る人の心に訴えるものになるでしょうね。
(宇野麻衣子 2001年9月15日)
麻衣子さんのような方に見ていただいて良かったなと思います。小生は学徒出陣と同時期に直接現役飛行兵として北満の航空隊へ入隊しました(HP「わんぱく物語」参照)。小生達が教育されたことは今言われるような侵略でなく、純粋に東洋平和の為と信じて戦地へ行きました。不幸にして20代で戦死した友も皆同じ気持ちです。どうか死んだ彼らを悪者にしないであげて下さい。
(信夫)
白黒写真のカラー化は私がペイントソフトで着色したものです。色が付くことによって昨日の出来事のように見えるのが面白いですね。
(旧ソ連抑留画集HP管理者 木内正人)
はじめまして。お父様のシベリアでの体験は、無論作品に描かれているような平穏で心温まるものばかりではなかったでしょう。それでも敢えて、時にユーモラスに何気ない日常の一コマを中心に描かれていたお父様のお人柄に感銘を受けました(当地の子供達や諸国の捕虜の方々との交流の場面に特にそれを感じられます)。益々のご活躍を期待しております。
(賢 2001年9月11日)
ありがとうございます。父と二人三脚で始めたHPですが、これほど影響力の大きなものになるとは思ってもみませんでした。やはり人間である以上、怒り苦しみばかりでなく、愛情があるからこそ生きることができるのかも知れません。奇しくも、海の向こうでは凄惨な事件が起きてしまいました。人と人とが憎しみ合うことのない世界になるのを祈るのみです。
(旧ソ連抑留画集HP管理者 木内正人)
私の父(大正10年生まれ)もロシアに抑留させられた経験を持っています。あまり、多くを語る人ではないのですが、ずいぶん前に少し話してくれたことを思い出します。父は、満州で武装解除になり、バイカル湖の辺の収容所にいたそうです。そこの収容所では厳しい土木作業をさせられるものの 柵もなく(逃げ出しても凍え死ぬか、飢え死にしかない)厳しい規制も無かったそうです。そこでは、貴方が描かれているのと同じように人と人として、ロシア兵や付近の農民と友好の時を過ごせたそうです。数年前に母が脳内出血で倒れ、その看病疲れからか最近めっきり老け込んできたと、帰省の折 思うようになった父に 次回、帰った時に「こんなホームページがあるよ」と教えてやろうとおもいます。(老人会のパソコン教室に行っていたので何とかインターネットは使えるでしょう。)
(asano 2001年9月8日)
終戦になっても、寒波というナポレオンもヒトラーも勝てなかった大敵があったんです。男は余り多くを語りませんが、体験した行動がその後何もかも語っている筈です。何処かにそれがにじみでていると思います。大切にしてあげて下さい。
(信夫)