皆様からのメッセージ・12


 はじめまして。こんにちは。私は筑波大学大学院修士課程芸術研究科に在籍している田中幸司といいます。実は貴ホームページへの感想とお願いがありましてメールを送らせていただきました。私は海上自衛官の父をもち、(今年で定年退職しました)江田島(広島)で生まれ、呉(広島)、大湊(青森)、横須賀(神奈川)、舞鶴(京都)佐世保(長崎)といった具合に日本各地の港町を転々としてきました。そのためか、幼いころから戦争や軍事等に、私の年代の人の中では身近に接してきたように思います。私は、大学院の修了をひかえまして、修了論文の執筆のための資料収集の為にネットを見ていましたところ貴ページに出会いました。そして、その作品・そえられた文章の前向きさ・自然さに大変感動し、興味をそそられました。それは、私が今取り組んでいる「描かれた戦争におけるリアリティー」という修論のテーマとも通じるところがあったからではないかと思います。研究の概要としては、あくまでリアリティーについての研究であり、特にその対象として戦争に関わる絵画・資料についての検証を行うというものです。又、それを通じて、自由な表現で溢れかえる現代の絵画表現の意義・可能性について探りたいというものです。さて、そこでお願いなのですが、あなた方のページ上の画像・文章・データ等を修了論文の参考資料として論文中に使用させていただけないでしょうか?又、ページ上の記述以外にもなにか情報がございましたら、個人的にメールをいただければたいへん幸せです。どちらにしましても、お時間のある時に一度メールをいただければと思います。長々と失礼致しました。どうぞよろしくお願いします。
(田中幸司 2001年6月1日)

 はじめまして。 わたしの二人の叔父も抑留者でした。 イルクーツクにて一人は病気で、もう一人は倒木の下敷きになって亡くなったと聞いています。 わたしの名字は珍しいので、どなたか同じ収容所におられた方があればおわかりになると思います。叔父達のことをいろいろ知りたいと思います。 わたしの娘は今中学生です。当時、抑留された叔父達と同じくらいの年令になりました。こんな幼気な年頃の子を、、と思うと悲しくなってしまいます。
(糸 峰世 2001年4月27日)

 はじめまして。私の祖父もシベリアに連行されその地で戦病死しております。肺炎で亡くなったと聞いております。写真でしか見た事のない祖父ですが、軍服を着てこれから戦地へ赴くとは思えないほど優しく微笑んでいる写真です。直接祖父から話しを聞く事ができない分祖父の人生を知りたいです。祖母は毎年終戦記念日になると戦地から送られてきた祖父の手紙と、シベリアで祖父の最期を看とってくれた戦友からの手紙を読んでくれます。祖父も祖母も20代の一番楽しいはずの時代を戦争で犠牲にしてきたんだなと思うと、あの時代を生きてきた人々に今の私達がある事を感謝しなければならないと思います。随分長くなって申し訳ありません。こんな感想をもちながら厳粛に拝見させていただきました。ありがとうございました。
(dora 2001年3月27日)

 お久しぶりでございます。今春休みで息子が帰っておりますので、いい機会だと思い「引揚記念館」へ行ってまいりました。息子は今年成人式を迎えたのですが、戦争と言えばTV・映画等フィクションでしか知らない年代でございます。日本には兵役制度もなく、身近なものとしては捉える事が出来ないのも仕方ないかもしれませんね。 しかし戦争の悲惨さ、平和の尊さの分かる子であって欲しいとの願いから記念館を見せておきたかったのです。最初は興味がない素振りをしていた息子も、遺骨収集の写真や当時の面影を残す展示品を食い入るようにして見ておりました。ちょっと押し付けがましかったかしら?とも思ったのですが、興味を持って展示品を見てくれましたので連れて行った甲斐があり嬉しい限りです。
 ところで なんと言う偶然でしょうか。木内さんの抑留画集展が開催されていたのです。嬉しくって早速ご報告に参りました。HPで拝見したものを実際に見ることが出来たなんて幸せです。紙質とかでも印象が随分違うように思いました。1月から3月までだけだそうですね。舞鶴在住のお友達にも 是非見に行くようにと連絡いたしました。気候の不安定な折、お身体には充分お気をつけ下さい。どうぞお父様にも宜しくお伝え下さいませね。
(Rei http://www2.to/rei2 2001年2月27日)

 初めまして、舞鶴在住の主婦です。わたくし、人との出逢いを大切にしたいとの思いから趣味でHPを作っております。今回、生まれ育った故郷を紹介するため舞鶴関連のサイトを訪ねていたところ、木内さんのところに辿り着きました。お父様の絵を一枚一枚拝見し、当時の苦しくて哀しい抑留生活に胸が痛みました。わたくしは戦争を知りませんが、舞鶴という土地で育ち、また父が特攻隊(出撃する前に終戦を迎えました)にいたり、その父の兄弟が二人戦死していたりで、少なからず戦争という悲惨で哀しい出来事を周りから聞かされて育ちました。引揚記念館へも数回行きましたが、展示品等を見るたびに胸が詰まる思いです。さて、その故郷紹介ページに此処をLINKさせていただいたのですがよろしいでしょうか?事後報告になってまことに申し訳有りません。もしご都合が悪ければ取りますのでおっしゃって下さい。よろしくお願いいたします。
(Rei http://www2.to/rei2 2001年1月19日)

 唯今絵を拝見致しました。誠に深い感銘を受けました。ソ連に抑留された方々のご苦労良く判りました。私もビルマに従軍しましたので状況は違いますが、雰囲気は十分想像できます。 あの貨車下の置き土産は私達が前線から下がる時を思い起こさせます。尤も我我はアメバー赤痢で貨車が停車するたびに線路沿いの野原で放便をしたものです。貨車の中は負傷兵病兵が混載で、うめき声傷の膿の悪臭などで生き地獄でした。本当に沢山の貴重な、しかもユーモラスで人間味豊かな絵を残され、心からお礼もうしあげます。 
(坂井 司 2000年12月30日)

 ダモイを胸に抱き、酷寒の中をひたすら自分自身と向き遭って生き抜かれた厳しさ優しさに私自身すがりたくなるような気持ちでいます。まるで高村光太郎の冬と立ち向かう詩のように、(詩の題名は忘れましたが)凛として冬の寒風や厳しさに心身を洗い、心のたるみを断ち切りたいような気持ちです。「冬だ、冬だ、何処もかしこも冬だ、学問と相撲を取れ、卑屈になるな、メソメソするな、稼げ、マニュアリストになるな、小理屈を云うな・・・」(そんな詩だったと思います。)多くの人生の先輩が「異国の丘」で負けまいとしたように、或いは希望の魂を呼び起こしつづけられたように、すべての世代と時空を越えて、やはり私もそれなりの時代の厳しさと人間としての悩みをあるがままに受け止め、与えられた役割と、自分自身が人間として納得の行く生き方をしたいと考える次第です。多くの企業戦士や名も無き生活者が絶えず希望を忘れず、自らに甘えることなく、水面下では今も昔も形を変えて続いているであろう生活戦争に打ちひしがれること無く、戦争犠牲者の方々の魂の叫びに耳を傾けることを忘れるべきではないと感じるのです。先輩方が通ってこられた道筋とその生き様、そして何よりも底辺に流れておられた不撓不屈の精神と、戦友を慮られた友情や優しさは、脈々として今も受け継がれていることをここにお伝えしたいと存じます。
(北の国から 2000年12月28日)


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