皆様からのメッセージ・11
旧ソ連の感想 =
シベリア抑留されていた祖父がなくなりました 幼い頃から抑留の話を聞かされいつも聞きたくないと、耳を傾けもしなかった。しかし亡くなった今祖父の事を思いだし見させていただきました 祖父も辛い思いをしたんだと、将来自分の子供や孫にも話す為にもっと祖父の話を聞いておけばよかったと後悔する今です.どうもありがとうございました.
(hotta emi 2000年12月27日)
「親孝行したい時には親は無し」と昔から云われています。父母も祖父母もあなた以上にあなたを思っています。あなたもいずれ母親になった時に、きっとその愛は大きくなる事でしょう。お爺さんも空で喜んでくれています。輝いているお星さまが、きっとお爺さんかも知れませんよ。
(信夫)
とても貴重な作品を見せて頂き有難う御座いました。昭和11年生まれの私なので兵役の経験は有りませんが、集団疎開と焼け野原の横浜で少年時代を過ごしました。従兄がスマトラから復員して来た時は悲惨な話は聞きませんでしたが、ソ連に抑留された方のご苦労が良く解かりました。異国人に親切にされた事に何かホットしました。
(橋本 孝一 2000年12月26日)
いくら戦争をしても一人一人は思うほど悪い人間はいません。国と国がいがみ合う事が良くないんですね。私の弟も何も解らず集団疎開して兵隊より苦労したと思います。小2小3で母親から離れたら誰だって泣きたくなります。それでも泣いてはいけないという惨いことは二度とさせたくないですね。
(信夫)
知人からこのページを教えて貰い、大変感激し、色々と考えさせられながら拝見させて頂きました。私も10月より祖父の残した『罹災日記』を毎週ホームページに載せています。私の祖父は二人とも出兵しませんでした。ですので、当時の貴重な様子をこのページで見る事ができて嬉しいです。
(マゴ http://www2.giganet.net/~naz 2000年12月6日)
お爺さんの「罹災日記」とマゴさんの「ベルリンの唄」まで全部見せてもらいました。聞いたお話を忠実に描いていますね。マゴさんの想像画は見事でどうを得ています。私はマゴさんのお爺さんより15才くらい若い当時20才の現役飛行兵でした。戦友もこの1、2年でバタバタと天国へ逝ってしまいました。どうぞ我々の残した歴史を後の世に伝えて下さい。
(信夫)
抑留のホームページを読ませていただきました。私の叔父はシベリア抑留者です。現在、全国抑留者補償協議会の県連会長として、国連に請願に出かけたり、毎年11月23日には、シベリアで亡くなられた6万有余名の御霊を慰めるための慰霊祭を開催しています。戦後50数年を過ぎ、抑留された方も高齢になり、抑留された人々のことや零下30度以下の異国の地に命を亡くされたことも忘れ去られようとしています。戦争の悲惨さを無くして、恒久平和を続けるためにも、抑留という悲惨なできごとを歴史の1ページとして残すために、私はホームページを立ち上げていきたいと考えています。11月23日の慰霊祭には、全国抑留者補償協議会の神林会長のほか、約35人が参列して行われました。今後ともよろしくお願いいたします。
(ロウ 2000年11月28日)
叔父様もご苦労された方と推察いたします。戦死もさる事ながら、抑留中の死ほど無念な事はありません。凍土に埋められた6万余名の方々のためにも私は後の世の人達に知ってもらいたいと願い、今も思い出すままに描き続けています。
(信夫)
戦争の事がちょっと分かりました。でも、靖国神社に参拝する理由が分かりません??,戦争のことが、よくわかりました。あなたのした経験は、すばらしいと思います。よかったです。
(磯部恵太,石山貴聡 2000年11月7日)
最も大切なのは今の平和が尊い人命の犠牲の上にあることを若い世代が知ることです。また、父の体験が本当にすばらしいかどうかわかりません。少なくともこれら資料をネットで公開できたことはとても良かったと思っています。疑問に対する答えは、次の世代であるあなた方が自ら探して下さい。
(旧ソ連抑留画集HP管理者 木内正人)
私の祖父の新海上等兵もシベリアに抑留されました。毎年お盆に祖父の家に遊びに行っているのですが、毎回祖父はシベリア抑留時代のことを話してくれます。祖父は工兵でしたから、ソ連からしてみれば、結構使い勝手がよかったのでしょう。凍った湖に鉄道を敷設したり、飢えに耐えられず、名も知らないきのこを食べ、死んでしまった戦友の話などは特に印象的でした。歴史に興味があるため、祖父に抑留時代の話を詳細に聞きたいのですが、老い先短いであろう祖父に辛い時代のことを思い出させることにはためらいがあります。今年もあまり詳しいことは聞けませんでした。祖父はキシロスク?かチシロスク?という所で抑留生活を送ったらしいのですが、それはどこにあるのでしょうか?祖父も以前、地図で調べてみたそうですが、見つからなかったそうです。もしご存知でしたら、御教示ください。
(伴野広和 2000年11月5日)
ロシアは広いし当時の捕虜収容所も各所にありました。小生の収容所の最西端にあって、独ソ戦の後始末にかり出された部隊です。私の居た所でさえ、世界地図を見ても地名が見つかりません。ただキエフの少し南としか分かりません。やはりお爺さんにもう少し聞いて、手掛かりを見つけましょう。
(信夫)
私の父もシベリアで抑留生活を送ってきました。抑留時代、父は虫垂炎のOPEを受けたそうです。医師はロシアのひとでした。抑留時代の話は小学生の頃から幾度と無く聞いてきました。母は聞きたがりませんでしたが。偶然見たペ-ジでしたが、ぜひ、父にも見せてあげたいと思います。
(清水 智恵子 2000年11月1日)
お父さんがなんとか還れたことは良かったですね。ご存命のうちにたくさん話を聞いておいて下さい。そしてお子様へ伝え聴かせてあげて下さい。
(信夫)
はじめまして木内さん!私の父も同じく抑留経験者です。ここには、父と同じ経験の方が、いらっしゃっていました。父が、数年前にその頃の事を思い出して文章にしたものをHPに載せました。父の文だけでは、おぼろげなイメージも木内さんの絵を合わせて見せて戴くととてもイメージが鮮明になりました。読んで戴けたら幸いです。ご感想も戴けましたら、嬉しいです。
(平川@福岡 http://www.ne.jp/asahi/home/hirakawa/hokuto-set.html 2000年10月10日)
あなたのお父上はなかなかの文才である故、素晴らしい稀覯本を作成なされた様ですね。私はHPでご覧の通り、幼いころからわんぱく坊主で秀才ではありません。しかし、余り上手ではありませんが絵で表現することであなたのお父上と同感でした。仲間がいて嬉しく思っています。
(信夫)
私の父もシベリア抑留者です。父は、数年前から抑留当時の体験を「シベリアの思い出」と題して書きためていましたので、木内さんの「旧ソ連抑留画集」を拝見してとても懐かしく感じたようです。父は現在75才、毎年一回開かれる「石頭会」という当時の戦友達の集りを楽しみにしておりますが、年々人数が減って行くのを寂しく感じ、自分の体験を何とか人に伝えていきたいと思っているようです。その体験を多くの人に読んでいただきたいということで、ホームページをつくることにしましたが、父はまだパソコンを始めたばかり、息子の私が手伝って、なんとか完成させることができました。ご覧いただければ幸いです。なお、当方のページにリンクを張らせていただきますのでご了承ください。
(じうえもんの息子 http://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/3007/ 2000年9月23日)
石頭会の戦友さんから数人メールがあります。貴君のお父さんもきっと戦友会で私の抑留がの話ができることでしょう。まずまず生きて還れた喜びを味わってあげて下さい。
(信夫)
私の祖父は敗戦時に満州にて開拓民として大陸に渡っており、ソビエトの満州侵攻で捕虜としてシベリアに抑留されました。他のメッセージにもありましたが、彼も同じく当時のことを、生きている内にはついぞ話してくれませんでした。祖母にも話さなかったそうなので、私が想像もつかない環境であったのでしょう。今日このHPを見て、彼の秘密の一部を観たような気がします。祖父にひとつ近づくことが出来ました。ありがとうございました。
(本堂誠 2000年9月19日)
開拓民は我々軍人と異なり非戦闘員なので、軍隊と一緒に捕虜になる筈は無かったのです。なのにこの様な人がうちの部隊にも10人に2人ぐらい居ました。とても気の毒でした。私はもともと死ぬつもりだったので気楽でした。
(信夫)