皆様からのメッセージ・10
ぜひ、この抑留画集をパソコンを持たない知人に送ってやりたいんです。画集を書店等で手にするとは可能でしょうか。購入する方法はありませんか。図書館に行けば見れますでしょうか。
(北の国から 2000年9月11日)
残念ながら本は御座いません。これまでに本のリクエストは数多くの方々から寄せられているのですが、当方と致しましては出版資金がないため、本にできないままでいます。誠に申し訳ありませんが、当面はネットにアクセスできる場所から見ていただきたいと思っております。何卒ご容赦下さい。
(旧ソ連抑留画集HP管理者 木内正人)
父が体験したであろう極限状況を垣間見ることができました。ソ連より貨車に載せられ、北鮮へ逆送されし多くの御霊のご冥福をお祈りします。いまだ国交の無い他国に眠っておられる方々に真の安らぎが訪れますよう。一刻も早く半島に平和が訪れますよう。
(芝本敏彦 2000年9月11日)
戦勝国であろうと敗戦国であろうと、弱い一般人民の労するところは同じと思いました。戦争のむなしさは我々参加した者が犠牲になった人達の代弁をしなくてはならない義務感があるんです。
(信夫)
シベリア抑留ってもっと地獄みたいなところを想像してました。すてきな人間のふれあいがあったんですね。
(ひろむ 2000年9月11日)
世界中どこの国の人もみんな戦争は好まない人たちだと云う事を実感してきました。戦争を起こした人間は上層部の思い上がった、ごく少数の人たちです。その他の人はみんな良い人たちなのです。仲良くしましょう。
(信夫)
私の祖父は戦争体験者です。祖母と父と一緒に満州に渡っていたということでとても興味がありました。父が12歳ごろ日本へ帰国したときいていましたので満州でなにがあったのかどういったところだったのかが知りたいと思っていました。しかし、私が話を聞きたいと思ったころには祖父は亡くなっており、父も当時ひどい体験をしたそうで当時の話は誰にも話してくれませんでした。先日タクシーにのったところ80歳になるという運転手さんが戦争が終わってから満州で捕まり、ロシアへつれていかれたというお話をしてくだいました。辛かったことや面白かったことなどをお話してくださいましたが、すぐ目的地へついてしまい、あまりお話が聞けませんでした。まだまだ分からないことがたくさんあり、もっと知りたいと思っていた矢先に今回このHPを見つけ、とてもうれしく思っています。私達の様な戦争を体験していない者には、どうしても当時の様子がわかりません。ですからこれからもお話をこのサイトで聞かせていただければと思います。有難うございました。
(オオクボマサコ 2000年8月26日)
お爺さんがもっと長生きしていたら良かったのに残念でしたね。でも、ロシアの凍土の下で永眠しているお爺さんの戦友達も忘れないで時々思い出してあげて下さい。
(信夫)
来年から3年間の予定でウクライナへ行くことになり、インターネットでウクライナの情報を検索していたところ、偶然こちらのHPに出会うことができ、非常にうれしく思っています。私の祖父もシベリアに7年間も抑留されていたのですが、祖父は私が幼稚園生のころに亡くなったので、残念ながら祖父の抑留体験を祖父自身から直接聞くことなくこれまで過ごしてきました。どういう巡り合わせか、私はロシア関係の仕事に就き、シベリアや極東の方へは足を運んだことがあり、その際には祖父の足跡を訪ねていました。このHPにあるように、ロシアの人々、スラブ民族は非常に陽気で素朴な人たちです。どの国の人も人と人のつきあいをすれば、皆心が通じ合うんでしょうね・・・。祖父も生前、決して一方的にロシア人のことを悪くは言ってなかったそうです。ウクライナに行ったらぜひウクライナ抑留者の方々の足跡も訪ねてみたいと思います。
(郁 2000年8月19日)
郁さんのお爺さんもきっと人をよく見る心の広いお方だったんでしょうね。どこの国も庶民は皆同じ思いで戦争に巻き込まれたのです。国のトップの方針で災難に遭うのは我々踊らされる民だけと、お爺さんも思っていたことでしょう。
(信夫)
山田努さんが紹介して下さったので、拝見する事ができました。極限を生きて来られながら、その絵と文は、ヒュ−マニズムとユ−モアにさえあふれ、幾度と無く涙がこみ上げそうになりながら、見せて頂きました。有り難う御座いました。それにしても、なんていい息子さんでしょう。でも、メ−ル位は、パソコンを毛嫌いなさらずにお始めになりませんか。私も、今65才、去年始めたばかりですが、楽しいです。
(今松 桂子 2000年8月18日)
パソコンには恐れ入りました。小生(77才)はやはり苦手です。息子が交信してくれるので、おんぶしてもらっています。でも、昔の事を思い出して現在見られなくなりつつある事柄を絵に残したいと頑張っています。桂子さんもいつまでも元気でいて下さい。
(信夫)
現在ハワイ在住の日本人です。先日初めてアリゾナメモリアルに行き、以来戦争時代の空白の知識を埋めようといろいろしらべているうちこのサイトを見つけました。ソ連の強制収容所に関してはまるで知識がなかったのでとても勉強になりました。それから強制労働を強いられていたのにもかかわらず否定的な表現をしなかったお父様は立派だと思いました。
(みきらに 2000年8月17日)
父は、戦争そのものが罪であり人間ひとりひとりに罪は無いとよく言います。異国に暮らす人々も自分と同じときに笑い同じ時に泣くことを知ったからだそうです。悲しい過去を消し去ることはできませんが、我々次の世代がすべきことは、戦争のない未来を建設することではないでしょうか。ささやかですが、このHPも未来に役立てればいいなと思っています。
(旧ソ連抑留画集HP管理者 木内正人)
とてもよかったです。前々から昔のものや戦争には興味があったのでこのホームページを見つけることができて幸運でした。とても細かく書かれていて、ご本人の体験談ということでさらに見ごたえがありました。当時はいろいろとつらい時代だったことでしょうが、現代よりも人情があふれ、さまざまなドラマがあり、絶対に今では体験できないことばかりの時代で少しうらやましさを感じます。(つらい体験をされているのにこんな言い方は失礼だと分かっていますが・・・。)お話には心を揺さぶられました。実体験のある方がそれを語ることはこれからの世代に“平和が大切である”ということを伝えていくのに一番よい手段だと思います。絵のほうをまだ描かれているのでしたらぜひこれからも頑張って下さい!
(菜美 2000年8月12日)
昔のことを知り、参考にして現在をより良くしてゆくことは大切なことと気付かれた菜美さんへ親しみを感じます。やがて時代が変わってゆく中で、こうした出来事を正直に伝えて行く人になって下さい。
(信夫)
私は,小学校三年生です。9才です。夏休みの宿題で,戦争のことを調べています。ぜひ、おじさんの戦争体験を教えてください。おねがいします。
(みのうら まなみ 2000年8月5日)
せんそうをしたくないたくさんの人が、せんそうをする。とてもおかしなお話ですが、世界のどこかでせんそうをしています。そして、たくさんの人が死んでいます。こんなことをしてはいけません。今の小学生たちが、みんなでかんがえて、やめることにしたいですね。
(信夫)
すごく面白いページです。僕の祖父もシベリアに居たようです。僕が小学生のころ亡くなってしまったので、ほとんど戦争の話は聞いていません。ただ、片方の耳がかけていて、それは寒さで凍って欠けたときいていました。このHPをみて、僕のおじいちゃんもこんな大変なところにおってんなーと、わかりました。よう生きて帰ってきてくれたなーと思います。ほんま、ご苦労様でしたて、ゆいたいです。きっとおじいちゃんも本当は、色々したい話があったんちゃうんかなと思います。これからも、自分のおじいちゃんの話を聞くような感じでここに訪れたいとおもいます。
(幸平 http://www.d3.dion.ne.jp/~tj1/
2000年8月5日)
ロシアは寒いので、耳や鼻が凍って欠けてしまう人や、凍死してしまう人がたくさんいました。お爺さんが生きていたらきっと苦しかったお話が聞けたと思います。この絵を見てお爺さんの偲んであげて下さい。
(信夫)
多くの作品を拝見させていただき、感激いたしました。実は私の祖父は満州で終戦をむかえた後、捕虜となったようです。列車の中で一緒になった方が復員され、会いにこられたそうですが、祖父のあしどりはその列車のこと以降全くわからず、現在に至っています。私の父は祖父の顔を一度も見ることなく育ちました。私はテレビや書物から、抑留生活の過酷さを知りました。寒さの中で死んでしまったのか、その最後に誰か手をとってくれた方があったのか、粗末でもいいから埋葬してもらえたのか、それともどこかで生きているのか…。想うと涙が止まりません。どうにか祖父の最後を知るすべはないかと思いこちらのHPに寄らせていただきました。沢山の絵を拝見し祖父の体験を少しでも知ることができ、嬉しく思っています。祖父の名は大方太進(おおかたたいしん)福島県田村郡小野新町の出です。探す手段等ありましたら、教えていただきたいのですが…。個人的なお願いで申し訳ありません。
(佐藤江利子 2000年8月4日)
大方曹長と云われた人が中隊に居たような気がするので、他の戦友にも聞いてみるつもりです。部隊が違っていると、もう解りません。あの頃はいつ消えたか別れたかも知ろうとしない境遇でしたから・・。
(信夫)
知りませんか、収容所等を。亡父 吉崎宗次(そうじ)明治43年生まれs22.7.2にケメロボ州第525地区スターリンスク(現ノボオクズネック)第7収容所北方約30キロセンバー農場で死亡(厚生省回答)。一度墓参に行きたいと思っています。収容所 農場、墓地の場所を調べていますが、なかなかわかりません。お力添えを。
(吉崎 龍平 2000年7月31日)
我々20代現役兵と、30代の召集兵とでは体力の差もあって、寒さの厳しい地区では30代の方々は多く凍死された様です。小生も凍土に戦友を埋めて来ましたが、何処へ埋めたかわかりません。政治的に墓を建てて墓地を作っては有るらしいが、骨まではどうかと思います。誠にお気の毒です。戦争とはこんなものです。
(信夫)