皆様からのメッセージ・6


 半世紀振りの事実を拝見し 感慨新たでした。ご労作に心からの讃辞を表します。私も 三合里ならぬ弥勒洞からポセットに入りましたが、エラブカから2年後舞鶴へ帰還した者です。どうか益々ご健勝に過ごされるよう念じ申します。
(自然(じねん) 1999年7月6日)

 私は昭和21年生まれなので戦後しか体験していないのですが、なぜかとても懐かしい絵を見せて戴きました。 私の子供の頃はラジオでは「尋ね人」の番組がありましたし「戦争中」の勢いがまだ残っていて、親に叱られるときも「兵隊ならこんなもんじゃない」と言われました。
(佐藤 1999年1月13日)

 昭和18年1月現役兵とした内地の部隊には一日も居なく福岡で集合そのまま下関から釜山に渡りぢきにソウルを経て北満のハイラル北の果て南国熊本では思いも寄らぬ所でした。三年も軍隊にいれば要領良くなり楽していたところ、ソビエトの侵入、此方は丸腰同然の兵ばかり何日も持ちきれなく、降伏、人数ばかり兵器なし員数ばかりの関東軍僅かに抵抗したがだけ、60万の将兵は極寒のシベリヤで重労働、生きて帰ったものはいいが、向こうで不慮の死にあった戦友の無念おもりやりやりきれない気持ち、あの戦争は何だったのかと今持って心に残りあの世まで引きずって居かなけれ行けなければ成らぬのかと、年と共に苦痛が募ります。
(ichirou 1999年1月6日)

 歴史に携わる業務の旁々、戦史を紐解いています。昨年は、流山の羽根田さん(拘留経験者で、流山市の広報ながれやまに連載をしていました。)が亡くなり、作曲の吉田正さんが亡くなりました。新しい年を迎えるとともに、歴史の片隅に埋もれていくような気がしてなりません。また、反戦というと感情論が先立ち、戦時に真剣に生き抜いた人間さえも悪いと言いかねないような風潮が生まれてきています。それだけに貴HPのように淡々と事実を伝えていく姿勢が戦史研究に求められているのではないでしょうか。
(山下耕象 1999年1月2日)

 厚生省実施によるシベリアの遺骨収集に参加しております。今年は、HPを作り、収集作業の実情を掲載しております。よろしければ、ご笑覧下さい。
(片山 孝 http://www4.justnet.ne.jp/~tarsha 1998年12月29日)

 貴「ボレロ」をHPに載せさせていただいている永島です。以来2ヶ月、私自身が楽しいのは勿論ですが、皆も喜んでくれます。その事とURL変更の報告をしようとし、今朝は、信夫様のヒコーキ〜DDT〜を「ホントご無事で良かったですね」と震える想いで見ました。女性は天使ですね。
(永島 滋雄 1998年11月16日)

 はじめまして。山村と申します。北大スラブ研究センターというロシア・東欧地域研究の機関がございますが、そのホームページで「旧ソ連抑留画集」のページへのリンクをはりました。場所は、http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/jp/server-j-fr1.htmlの/地方情報/シベリアです。とりあえず「シベリア」というところにリンクをはりましたが別の場所の方が適当かもしれません。
検討中です。
(山村理人 1998年10月12日)

 昨日の夜はFAXありがとう担任の先生とみせていただきました。まだ全部見てませんが今度ゆっくり見ることにします。それとよければまさとお兄さんとじゅんじ兄ちゃんのアドレスを明日電話するので教えて下さい。
(大石文吾 1998年10月8日)

 8月にご返事をありがとうございました。迂闊にもメイルに気づかず失礼しました。私の父は抑留されたとき肺炎を患い片肺が機能しません。最近胸を患い今では両方の肺がレントゲンで真っ黒ですが・・・。子供の時からシベリアの話は聞かされておりました。「あの苦労を思えば何だって出来る。」というのが口癖でした。意義深い、ご労作を本当にありがとうございました。追体験出来るのもこのホームページのおかげです。
(能美 秋 1998年9月9日)

 大変なご労作をありがとうございます。私の父も抑留体験者です。狼に遺体が食べられてしまう話を子供の頃聞かされ強い印象を持っておりました。父とは、遠く離れてすんでおります。父はコンピューターを持っておりません。プリントアウトさせていただき、是非、父に、見せてやりたいのですが、ハイパーテキストの文字のみしか印刷できません。どのようにしたら、絵の部分も含めてプリントアウト出来るか教えていただけないでしょうか。子供に「おじいちゃんはね、シベリアで捕虜として・・・」と、常々話しておりましたので、子供も大変に、このページから大切なことを学ばせていただきました。ウィンドウズ95です。
(秋 1998年8月14日)


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